旅の絆
一年に一度沖縄を訪れる。ほぼ20年間、義父の病気を案じて行かなかった1度を除いて、毎年ずっと続く我が家の唯一ともいえる恒例行事。20年!あらためて数えて我ながらびっくりするほど続いている。最初の沖縄行きでは子供料金も課されずタダで飛行機にはじめて乗った娘は22歳になった。
長年飽きもせず、同じ所に行き、数日間をこれといったアクティブなこともせず、その場所で過ごす、家族だけの濃密といっていい時間。そこからいつの間にか芽が出て、枝をはり、成長した旅の記憶が、私たち家族の中にある。冬が終わり桜の頃になると必ず交わす合言葉は「今年の沖縄どうする?」だ。
きっかけ
長年、マーケティングの仕事をしている私は37歳で1人娘を出産し、1年近い産休を経て、職場に復帰した。40歳になる時にわずかながら臨時の収入があり、記念に何かいつもと違うことにお金を使おうと考え、思いついたのが沖縄県八重山諸島の「竹富島に行く」ことだった。
なぜピンポイントに竹富島なのか。理由があった。10代終わりに知り合った知人が話してくれた、東京から遥か遠くにある竹富島の素晴らしさ(具体的に何だったのか覚えていないが)が、意識のどこかにずっと残っていたのだと思う。そして、なぜかそのことが突然閃いたのだ。その時、娘は2歳。7月半ばに3歳になるまでは、親と一緒に座れば飛行機代はタダ。夫と2人分なら、滞在費も含め臨時収入で賄える。私たちは沖縄の梅雨が明けた7月はじめ、竹富島に旅立った。
何もかも初めて
魂の憧れ、竹富島。20年前だと今ほどインターネット事情は進んでおらず、情報は多くない。いろいろ検索してたどり着いたのが、島唯一の遊泳ビーチで、遠浅の海が美しいコンドイ浜まで徒歩1分の場所にあった不思議な宿だ。予約を受け入れるのは一回にひと部屋のみ。コンクリートブロックを積み上げただけのバンガロー(夏は熱がこもり、たいそう暑い)が、手入れされた緑の前庭を囲むように並ぶ。その失礼ながらシャビーな居室とは裏腹に、朝食と夕食を前庭に設けたテーブルで、コース料理のように一皿一皿運んでくれる宿だ。
そこをベースに、まだ小さい娘が熱中症にならないか案じつつ、宿とビーチを一日に何度となく往復し、サンゴが砕けた白い砂浜や透き通るエメラルドグリーンの浅瀬をよぎる小さな魚の群れ、夕方に突然大挙をなして、ビーチの奥の茂みから現れるオカヤドカリの群れに驚いた。何もかもが新鮮だった。最初の滞在は3泊ぐらいだったと思うが、竹富島の魅力の一端を知り、(娘の飛行機は子供料金になるし、臨時収入の予定はないが)次の年また来ようと決めたのだった。
島の魅力と旅の魅力
次の年になると最初の宿は廃業していた。まだ小さい娘を連れての旅だったので他の泊り客の迷惑にならないよう、個室がある宿を探し、たどり着いたのが、これまた優雅な旅には程遠い、ベッドを筆頭に部屋にあるものすべてが多分20年は経過していると思われる洋室。当然ベッドのスプリングは腰痛持ちなら絶対寝られないほど沈んでいて、トイレタンクの蓋は欠けたまま放置されていたが、小さな娘と過ごす私たち家族には、そんなことも旅の楽しさのうちだった。何より、どこに行くにもTシャツとビーチサンダルでお洒落しなくてもいいことは、当時ファッションの仕事に携わっていた私にとって身も心も解放される思いがあった。
ベビー用腕浮き輪から浮き輪を経て、小学生になり泳げるようになった娘。南の海にはやや調子はずれな水泳帽とスクール水着に水中メガネで、海をたっぷり楽しんだ。手先が器用な夫は、「工作セット」を旅支度に忍ばせ、せっせと拾った貝でなかなかに芸術的な作品を作る。母娘が昼寝の間に周囲のジャングルを散策して恐ろしげな巨大クモや、美しい蝶を写真におさめたり、一手に洗濯を担ったり、フル稼働だ。私はといえば、懐かしさで泣きたくなるような日暮れの景色や、真夏の青い空の広がる誰もいない周遊道路を自転車で走り抜け、命の洗濯をした。
縁あってとても居心地の良い3軒目の宿と出会ったことが、今でも竹富を訪れることにつながっている。20年間毎年7月になると、同じ島を訪れ、同じ場所に滞在し、海で日の出を拝み、日中は「なんちゃってシュノーケリング(膝ぐらいの遠浅の海の水中散策)」、貝拾い、集落めぐり、たまに石垣まで買物、西表島の向こうに沈む夕日を見に行く、そして夜は雨が降ったらずぶ濡れの屋外食堂でビール、この繰り返しだ。
「良く飽きないね」とたまに言われるが、海の自然は未知との遭遇の連続。サンゴ礁に囲まれたイノーの海には、いったいどれだけの生き物が生息しているのかわからないが、毎年新たな出会いがある。色とりどりの小さな魚たちや大小さまざまなカニやヤドカリはもちろん、10センチほどの小さなシャコを捕まえようとして強烈なパンチをあびそうになったり、夕闇の海岸で浅瀬に迷い込んだエイの姿を目撃したり、ヤドカリが何匹も集まっていると思ったら「ヤド替え」の真最中で、空いた「ヤド」を捕りあって更に別のヤドカリ2匹が牽制しあうところに遭遇したり、と本当に面白いことが何かしらある。
記憶の共有
そんな海の面白さ、家族で過ごした記憶を、家族それぞれが共有し記憶に留めている。後で気付いたのだが、私や夫はもちろんのこと、3歳から保育園に通った娘にとっても、1週間前後の時間すべてを親子3人で同じことをして過ごす充足感があったのだと思う。小さいころはどちらかと言えば引っ込み思案で、家で過ごすことが好きだった娘が保育園に慣れるのは少し時間がかかった。毎朝、園まで送りに行った夫の車から降りたくなくて、毎回保母さんたちが2人がかりで車の中から降ろしたエピソードは今でも話題に上がるほどだ。
そんな家や家族好きのところは今に至るまで変わらないが、高校ぐらいからめきめきと両親の強気な性格が遺伝子から目覚め、大学で実家を離れて4年生になる今では、ひとりサメ漁の漁師さんに突撃取材をするまでに成長した。娘は海洋学を専攻している。
1957年生まれ。東京都出身。マーケティングのコンサルティング会社勤務。父親の転勤をきっかけに20代にロサンゼルスとニューヨークに滞在。帰国後、モデルエージェンシー、イタリアやアメリカのデザイナーブランドの広報を経て、2000年から現職。趣味はクラシックバレエとクラシックギター。