特集:戦後80年 黒焦げの水筒~平和のシンボル

ハワイでの日米合同慰霊祭

静岡市で生まれ育った私が、アメリカに移り住んですでに30年以上が経ちました。日米間を頻繁に行き来しながら、アメリカ人の夫と一緒に子供たちをバイリンガル、バイカルチュラルに育てる中で、日米両国の価値観や歴史が、我が家の生活の中では日常的に大きな意味合いを持っていました。

そんな中、夫の仕事の異動で、2023年の夏から一年間、ハワイに住むという機会をいただきました。母の満州引き揚げ体験談を出版して以来(『お母ちゃんとの約束』ペンコム社)、講演会などを通して微力ながら自分なりの平和活動を続けてきた私にとって、「戦争」と「平和」の大舞台であるハワイ、日系人が多く住むハワイに住むことは、とても特別なことでした。そしてハワイに移って数か月後、ハイライトとなる大イベントがあったのです。

太平洋戦争開戦記念日の12月7日には、毎年ハワイの真珠湾で追悼式があり、その翌日に「黒焦げの水筒」という日米合同慰霊祭(”Blackened Canteen Ceremony”)が、真珠湾内にあるアリゾナ記念館で行われています。そのハワイでの慰霊祭の創始者であり、日米間の平和活動に長年ご尽力されている菅野寛也さんがその年は来られなくなり、私に代役として式典に参加してくれないかという打診があったのです。大勢の日本人がハワイに住んでいるにもかかわらず、この話が私に舞い込んできたのは、単なる偶然ではなく、運命の大きな力が動いたのではないかと感じずにはいられませんでした。

地元静岡との奇遇なご縁

さかのぼること30年、当時婚約中の夫と私は、私の地元である静岡市を訪れていました。静岡浅間神社にお参りに行き、そこから百段ほどの急な階段を上り、麓山(はやま)神社にもお参りしました。麓山神社から続く、賎機山(しずはたやま)の山道を富士山の美しい姿に歓喜したりしながら歩いていると、しばらくして広場に出ました。こんなところがあったんだと感心していると、夫がそこにある石碑を指さし、B29の下の文字は何かと聞いてきました。私も初めて目にする石碑で、近寄ってみると「B29墜落搭乗者慰霊碑」とあります。そして、その横には「静岡市戦禍犠牲者慰霊塔」があり、菩薩様が立っているのです。なぜこんなところに静岡市民と米兵の慰霊碑があるのか、、、その日から、歴史オタクの夫と、歴史好きな私のリサーチが始まりました。

1993年、静岡県賎機山のB29墜落搭乗者慰霊碑と夫

1993年、静岡県賎機山のB29墜落搭乗者慰霊碑と夫

1945年6月、終戦の二か月前、静岡市は米軍の大空襲を受け、2000人以上の市民が犠牲になりました。その空襲の最中、二機のB29爆撃機が上空で衝突し、安倍川付近に墜落、23名の米兵搭乗員全員が命を落としました。伊藤福松さんという方の桑畑にもB29の機体の一部と米兵の遺体が散乱し、その中に伊藤さんはすすけた水筒を見つけました。その黒焦げの水筒には、搭乗員が強く握りしめた指のあとがくっきり凹んで残っていました。伊藤さんは、周囲から非難されながらも、「死んだら敵も味方もない」と墜落死した米兵のために廃材で十字架を作り、丁寧に供養しました。その後も毎年6月の静岡空襲のあった日になると、黒焦げの水筒で畑に酒を注ぎ、米兵への慰霊をしていました。のちに僧侶になられた伊藤さんは、1970年に静岡浅間神社の裏にある賎機山に「静岡市戦禍犠牲者慰霊塔」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」―まさに夫と私が30年前に山道で遭遇し、心を動かされた、あの二基の慰霊碑―を、私財を投じて建立し、今度はその慰霊碑に毎年6月になると黒焦げの水筒で酒を注ぐ儀式を行い始めました。

前述の菅野さんは、静岡の大空襲の当時はまだ小学生でした。大空襲の惨事や墜落現場の惨状を翌日になって目の当たりにし、「巨大な残骸と、米兵の大きな遺体が戦争の残酷さを物語っていたが、そこで見た光景は一生忘れられない」とのちに著書で語られています。戦後25年ほど経ったころ、菅野さんは建立されたばかりの慰霊碑と賎機山で出会い、これらの慰霊碑の背景を知り、大きく心を動かされました。伊藤さんの長年の行動が日米の平和、和解のためにどれほど大きな意味を持つものであるかということを伝えるべく、菅野さんは伊藤さんを探し出し、更には、伊藤さんが年々個人的に行っている黒焦げの水筒の儀式を、近い将来、日米合同の慰霊祭にするよう働きかけました。そして、その数年後に、多くの方のご尽力で日米合同慰霊祭が賎機山で見事に実現しました。のちに慰霊祭のバトンは伊藤さんから菅野さんに引き継がれ、50年経った今でも、毎年6月になると、米軍の代表者たちが静岡賎機山の慰霊碑にその黒焦げの水筒で献酒しています。

1991年12月に開戦50周年の節目として、菅野さんはハワイへ赴きました。そして、真珠湾にあるアリゾナ記念館で、一人で黒焦げの水筒で献酒の儀式をしました。その菅野さんの勇気ある行動をきっかけに、以後、「黒焦げの水筒」日米合同慰霊祭が12月初旬に催される真珠湾追悼記念日の一環の公式イベントとして加わり、日米の平和を願う式典が、静岡だけでなく、日米開戦のきっかけとなった地ハワイでも毎年行われるようになったのです。

代役として参列

2023年12月、ハワイにいるこの貴重な年に、この合同慰霊祭でついに菅野さんにお会いできるかもしれないと私は心から楽しみにしていたのですが、その菅野さんが来られなくなってしまったと聞き、残念に思っていました。そんな中、菅野さんの代役の話が私のところにめぐりめぐってたどり着くというとても不思議なご縁で繋がれ、そして、大変光栄な役目を引き受けることになったのです。

ウィスキーの入った黒焦げの水筒のレプリカを持ち、日米の代表者とともに、真珠湾に献酒した

ウィスキーの入った黒焦げの水筒のレプリカを持ち、日米の代表者とともに、真珠湾に献酒した

12月8日、夕方4時過ぎ、参加者一同ボートに乗って、パールハーバー国立記念館の桟橋から湾内に浮かぶアリゾナ記念館に向かいました。4時とはいえ、ハワイの日差しはまだ強く、海に反射し、まぶしいかぎりです。平和な青空のもと、厳かに式は進行していきました。かつて敵国同士だった日本とアメリカが、今はお互い最も信頼しあう友好国になっている事実を深くかみしめながら、代表の方々のスピーチに聞き入りました。私の役目は、ウィスキーの入った黒焦げの水筒のレプリカを持ち、日米双方の代表者たちと一緒に真珠湾に献酒するというものです。真珠湾攻撃のあった当日は、こんな青空とは異なり、攻撃を受けた20隻余の軍艦から立ち上る黒い煙で空が覆われ、海面に流れ出した重油の匂いが充満し、爆発音や人のうめき声があちこちから聞こえていたことでしょう。そんな緊迫した状況を想像しながら、戦艦アリゾナと共に今も海底に眠る1177名の魂に心を込めて献酒をさせていただきました。

参列者の中には、真珠湾攻撃の生存者の元軍人の方が二人参列されていました。共に102歳のお二人は、それぞれフロリダ州とミシガン州から毎年来られているとのことでした。式の最後に鎮魂ラッパが鳴り始めると、お二人は直立不動で敬礼をされました。その立派な後ろ姿を見ながら、日米の平和・和解を象徴する儀式に心が震え、私はそれまで我慢していた涙をこらえきれなくなりました。2019年に亡くなった母が、真珠湾でのあの美しいイベントに一緒に参加できていたらどんなに喜んだことか、と母への思いをはせながら、この美しく、心温まる式典に参加させていただけたことに心から感謝しました。

2023年の慰霊祭に参列されていた、真珠湾攻撃を生き延びた元軍人のお二人(ともに102歳)

2023年の慰霊祭に参列されていた、真珠湾攻撃を生き延びた元軍人のお二人(ともに102歳)

菅野寛也さんとの出会い

この式典への参加をきっかけに、菅野さんにお目にかかりたい気持ちが更に強まり、静岡に帰省した際にお電話をしてみました。事情を説明すると、「今日の夕方いらっしゃい」と訪問を快諾してくださり、たくさんの資料のコピーを用意して待っていてくださいました。30年前に賎機山で慰霊碑と出会ってから、何度となくお名前を目にした菅野さん御本人から伺う内容は、とても重みがあり、「慈愛・ヒューマニティー」「日米和解」「世界平和」に向き合う菅野さんの思いと私の思いが重なり合うのを感じずにはいられませんでした。帰り際に、神棚に奉られている桐の箱に入った遺品の水筒を見せてくださいました。その水筒の側面にある凹んだ指のあとに自分の指をあてがいながら、菅野さんが伊藤さんから受け継いだように、今度は私たち世代がこのような活動を継承し、平和の本当の意味を後世に伝えていかなければならないのだという使命感を強く感じました。

神棚に奉られている桐の箱に入った遺品の水筒

神棚に奉られている桐の箱に入った遺品の水筒

日米間の平和活動に長年ご尽力されている菅野寛也さんと筆者(右)

日米間の平和活動に長年ご尽力されている菅野寛也さんと筆者(右)

二回目の代役

2024年の日米合同慰霊祭(ハワイ)

2024年の日米合同慰霊祭(ハワイ)

2024年12月初旬にハワイで行われた真珠湾アリゾナ記念館での式典にも、菅野さんがいらっしゃれないとのことで、再度代役を務めて欲しいとの打診があり、光栄な気持ちで参列してきました。前年に引き続き、今回も菅野さんの代役として「日米の和解と世界平和」を象徴する「黒焦げの水筒」で献酒のお手伝いをさせていただきました。去年と同じく眩しい日差しと青空の下、ハワイのお祈りに始まり、当時イーストウェストセンターの所長を務めていたバレスラム氏の心に響くスピーチ、「黒焦げの水筒」での献酒、最後にはバラの花びらと共にお祈りを捧げ、今年も穏やかで温かな空気に包まれた式典でした。

去年初めて参加した際に出会ったお二人の退役軍人の方々は、共にお亡くなりになり、再会を果たすことはできませんでした。今回も車椅子に乗った退役軍人の方々が数名参加されていましたが、戦争体験者の皆さんがすでに100歳前後という時代、語り部たちを失っていく焦りを感じずにはいられませんでした。それと同時に、私たち世代が戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和の大切さを訴えていかなくてはいけないという使命の必要性を再認識し、地道な平和活動を続けていくことを夕陽に包まれるアリゾナ記念館で誓いました。

真珠湾の夕日

真珠湾の夕日

搭乗員のご遺族との出会い

真珠湾での式典に関する報道の一環で、ハワイのテレビ局からインタビューを受け、「黒焦げの水筒」にまつわるストーリーが3分ほどの動画にまとめられ、ニュースで放映されました。その1か月後、偶然ネット上でその動画を見た方からメールが届きました。なんと、静岡の上空で散った23名の米軍搭乗員の一人の遺族の方からだったのです。お電話で話したあと、早速オハイオに住むこの方テッドさんに会いに行きました。19歳の若さで亡くなった叔父様のことを、テッドさんは母親や叔母、祖母から聞いて育ち、当時の手紙や文書も大切に保管していました。それらを手にしながら、オハイオと静岡がこのような形で繋がった奇遇さ、国境を越えた人間のもつ慈愛を強く感じました。

去年、菅野さんにお会いした際、「水筒のレプリカを遺族の方々に渡したい。遺族を探すお手伝いをして欲しい」と頼まれたことをテッドさんに伝えると、彼はファイルの中にあった手紙の束を広げました。搭乗員の遺族間で交わされた手紙でした。テッドさんは「ここに記されている住所をもとに遺族を探しだせるかもしれない。自分にも協力させて欲しい」と申し出てくれたのです。菅野さんの願いが少しずつ実現していく瞬間に関わらせていただくことは非常に光栄なことであり、天国にいるテッドさんの叔父様が引き合わせてくださったこのご縁に心から感謝しつつ、『お母ちゃんとの約束』から始まった私の平和活動が、更に動き出したこと、それがとても意味のあるライフワークであることを改めて実感した一連の出来事でした。

静岡での慰霊祭に初参加

先週の6月21日、静岡市の浅間神社裏にある賎機山で行われた日米合同慰霊祭に、初めて参列して来ました。もうすぐ92歳を迎えられる菅野さんは、道中何度も休憩を取りながらも、一歩一歩確かな足取りで、ゆっくりと山頂まで登られました。その姿に、長年この慰霊祭を支えてこられた強い思いを感じました。

梅雨の晴れ間に恵まれたこの日、横田空軍基地からバスで駆けつけた制服姿の米軍関係者約60名をはじめ、伊藤福松さんのお孫さんなど、総勢100名以上が参列されました。参加者は、焼香の後、黒焦げの水筒を使って慰霊碑に献酒を行い、犠牲者の御霊に祈りを捧げました。私と夫も、慰霊の気持ちを込めて献酒させていただきました。

今年は、終戦から80年という大きな節目の年です。「慈愛・ヒューマニティー」「日米和解」「世界平和」に加え、「継承」というテーマの重要さをあらためて胸に刻みながら、「静岡空襲犠牲者の碑」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」に手を合わせました。

2025年6月、静岡市の浅間神社裏にある賎機山で行われた日米合同慰霊祭

2025年6月、静岡市の浅間神社裏にある賎機山で行われた日米合同慰霊祭

そして、そのような平和を願う温かな式典のわずか半日後、アメリカによるイランの核施設への攻撃というニュースが飛び込んできました。この現実を前に、本当の意味での「世界平和」とは何かを、深く深く考えさせられています。
(2025年6月末 バージニアの自宅にて)


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