特集「人生で一番の宝物」: 4代(台)にわたる大切な相棒、ピアノ
赤いピアノからオルガンへ
おもちゃの赤いグランドピアノを買ってもらったのは、おそらく幼稚園の頃だったと思う。不思議なことに、園で習った歌を、全くの勘で弾くことができた。いつの間にかそれは一人っ子である私の一番好きなおもちゃ、そして相棒になった。
次々に童謡を弾き始めた私をみて、ある日母は、少し遠くの幼稚園にある音楽教室に連れて行ってくれた。引っ込み思案だった私が、初めて会う友達のグループにすんなりと入っていけたのは音楽の力だったのだろうか。そこでは一人一台のオルガンが与えられ、先生のピアノを真似てメロディを弾いたり、合奏したり、簡単な楽譜を読んだりもした。週一回のその時間は子どもながらに楽しくて仕方がなく、少し長い道のりを、文句一つ言わずに母と歩いていったことを思い出す。
そしてついにある日、我が家にピカピカのオルガンが届いた。私が夢中になったのは言うまでもなく、赤いピアノはおもちゃ箱の隣に座ったままになっていった。
おじいちゃんと両親からの贈り物
小学生になり、クラスで流行していた水疱瘡にある日、感染した。母に言わせると、いつもみんなが治った頃に一番酷いのをもらってくる、ということで、長くお休みしなければならなかったようだ。高熱が続き、学校も、音楽教室も、友達との遊びも、全て禁止だ。幼な心にきっとかなり落ち込んでいたに違いない。そして身体中のボツボツが消えかかる頃、信じられないことが起こった。黒い大きな、本物のピアノ!!先生だけが弾いていた素敵な音がでるピアノが家に!!
私の父は、明るく優しく少しお茶目な人だったが、そんな彼が一つだけいつも主張していたことがある。「国語と算数だけはしっかりやってほしい、ピアノはそんなに弾けなくても大丈夫」――。それを聞いた母が、このままではピアノを買ってあげることができないと祖父に事情を話したらしい。おじいちゃんからの提案と言うことで、父も同意してくれたのだろう。でも、一つ約束を課してきた。「ピアノはたくさん楽しんで欲しいけど、パパの友達が来て何か一曲聴かせてって頼まれたら、ちゃんと弾いてね」と言うものだ。国語と算数のことじゃないんだ、と内心思いながらも、恥ずかしがり屋の私には難題だった。でもある日それをクリアする日が来て、お客様に褒められとても嬉しかった記憶がある。
3人の恩師
音楽教室を卒業し、最初の個人レッスンをしてくれたのは、小学校近くのA先生だ。明るくポジティブな方で、ここでピアノの基礎をしっかり学んだ。そして数年後には、モジリアーニが描く女性に似ているH先生につく。言い方は上品で優しいけれど、細かく厳しい指導をしてくださり、楽譜は書き込みだらけだった。発表会には、こんなの弾けるかしら、と思うような難しい曲にチャレンジさせてもらった。
中学生になった頃、最後の恩師Y先生に出会う。若くて元気ハツラツ、厳しくバシバシ言うけれど、少しすっ飛んでいて、いつも楽しげな方だ。先生が弾く音を即時に聞き取り楽譜に書き込む聴音、初めてみるメロディをその場で歌うソルフェージュ、そしてピアノは、ハノン(指の練習)、ツェルニー(練習曲)、バッハ、そしてメインの曲、と4種類の楽譜を常に弾いた。この4曲を次週までに仕上げるために、黒いピアノは私と一緒に必死に頑張ってくれた。
一方で、この頃私は地元の高校に進学し、音楽以外の勉強、とりわけ語学と文学に興味を持ち始めていた。父母とも相談し、音楽大学を勧めてくれたY先生のレッスンをついに辞めることになった。その後は高校の合唱部で伴奏したり、クラシック以外の曲を弾いてみたり、少しずつピアノとはゆったりした付き合いになっていった。
“I left my heart in San Francisco”
大学生になった頃、父が出張で訪れたアメリカのジャズバーで聴いた “I left my heart in San Francisco”が気に入ったらしく、弾けるか?と聞いてきたことがある。当時、厳しい門限を課していた父にささやかな反抗もあり、私は一言、弾けない、と答えていた。
やがて、結婚、出産、育児の日々が訪れ、夫の仕事の関係での3度の海外生活を経験したが、必ず黒いピアノは持参した。一度、船便に入れたピアノが到着せずに心配したことがあったが、足元の部品の不具合が修理されて、ますます傷だらけで戻ってきたこともある。それでもアメリカで、広い吹き抜けのリビングルームで弾くピアノは楽しく、時々集まるお客様に拙い演奏を披露したり、娘の誕生会でHappy Birthday To Youの伴奏をしたり、人生に彩りを添えてくれていた。
そしていつの間にか娘たちがピアノを習い始めた。水疱瘡の私をあっと驚かせた私のあの黒いピアノが、毎日のように違う誰かに触れられるようになったのだ。だいぶ古くなっても、娘に弾かれているピアノを聴くのは何よりも嬉しかった。
ジャズとの出会い
時は流れ、英国に住んでいたとき、日本の母から狼狽した声で電話があった。「入院中の父の様子がおかしい、すぐ帰ってきて」と言うものだった。子どもを夫に託し、一人日本に向かうが、成田空港に降りたった瞬間、JALの地上職員さんが私に駆けより、父の急逝を伝えた。間に合わなかった。その時ほど故郷の病院へ向かう道のりが長く感じたことはなかった。冷たくなった父に会えたとき、「ごめんね」としか言えなかった。手術の前に帰ってあげられなかったこと、大変な時に母を手伝えなかったこと、そしてもう一つ、“I left my heart・・”を一度もちゃんと弾いてあげられなかったこと。
父を亡くした後の母は、一人では暮らしていけないほどに急激に老いてしまった。ホームに入るまで、そしてその後も、一人っ子の私は一生懸命母の元に通った。当時は娘たちの受験や、学校の役員がある一方、夫は働き盛り、飲み会盛り、家のことはお任せだったため、母を看取るまで一人で頑張り過ぎていたのかもしれない。
そんなある日、夫がいきなり「ジャズピアノを始めてみたら?」と驚くような提案をしてくれた。疲れ切っていた私だが、ずっと前からいつか本格的にやりたい、と思っていたし、始めるなら今だ、と決意ができた。
月3回のジャズ・ピアノコース、幼少時に通ったあのYのつく音楽教室に決めた。ジャズの先生は数人いらしたが、受付の人の説明で、辞める生徒が一番少ないというN先生に決めた。そしてなんとそれからもう25年、始めのうちはコードネームさえろくにわからなかった私が、今ではコード譜さえあれば、まあまあカッコよくアドリブをこなせるまでになった。そしてもちろん父の好きだったあの曲も、上手に弾けるようになっていた。
さようなら、黒いピアノ
3回の海外生活を経験してようやく日本に戻ってきた傷だらけの黒いピアノに、ついに命を全うする日が来た。ありがとう、と涙ながらに感謝しながら、私は真新しい茶色い美しいグランドピアノを迎え入れた。ピアノの輸入元のお店を何度か訪れ、試弾させてもらい、ピアノ愛溢れる店主が勧めてくれた一台だ。
小さい頃、先生の家でしか弾けなかったグランドピアノが、今私のリビングにある。すっかり虜になったジャズをいつでも奏でられる。おもちゃの赤いグランドピアノに始まり、ブーブー音を出すオルガンも、長い月日を過ごした黒いピアノも、もちろんこの茶色のグランドピアノも、全てがいつも私の傍にある大事な宝物だ。天国の父に“I left my heart in San Francisco”がきっと届いていると信じている。
神奈川県出身。夫の赴任に伴う5人家族での3度の海外生活を経て、現在は都内で夫と犬と暮らしつつ、国内・国外でそれぞれ奮闘する娘たちを見守る。趣味は、手芸、庭いじり、ジャズピアノ、サッカー観戦。





