松本清張「ゼロの焦点」(1958年)

松本清張「ゼロの焦点」(1958年)

松本清張「ゼロの焦点」(1958年)

きっかけ

「ゼロの焦点」といえば、昭和時代の推理作家として馴染み深い松本清張の代表作として多くの人に親しみのあるタイトルであろう。出版3年後の1961年を皮切りに何度となくドラマ化され、2009年には豪華キャストで映画化もされているので、本は読んでいなくても内容を知っている人が多いかもしれない。私は最近、日本作家の作品に凝っているアメリカ人の同僚から、「次は松本清張の『ゼロの焦点』を読もうかと思うんだけど、どう?」と聞かれたのをきっかけに、はじめてこの作品の紐を解いた。

事のはじまり

物語は、「板根禎子は、秋に、すすめる人があって鵜原憲一と結婚した」と、しごく唐突に始まる。秋のお見合いからとんとん拍子に話は進み、11月の末には挙式、クリスマスの前にはすでに新婚旅行も終えていたほどの手際の良さである。しかし、憲一が赴任先であった金沢を引き払うのを待ちつつ、禎子が新婚生活に思いをめぐらせている矢先に事件は起こる。出張が長引くという知らせをハガキで受けてはいたものの、金沢から帰って来るはずの夫憲一は一向に帰宅せず、かの地で忽然と姿を消してしまうのである。こうして、新婚わずか一ヶ月余りで、26歳の新妻禎子の人生は突然激変してしまう。

捜索

大の大人が数日行方不明になっても、すぐに警察が捜査に乗り出してくれるわけではない。禎子は憲一の赴任先であった金沢に自ら足を運ぶ。驚くべきことに、勤務先も、さらに頼りにできるはずの憲一の兄夫婦でさえも、憲一が金沢に在勤中どこに住んでいたのか知らないのである。金沢付近であがった死体は別人で、憲一が身元不詳のまま病院で手当てを受けているわけでもない。禎子は、見知らぬ土地で、憲一の後任、仕事相手、そして現地の警察などの協力を得ながら、めぼしい手掛かりが何もないまま夫の行方を探し始める。

連続殺人とその手段

鵜原憲一の足取りが一向にわからない中、禎子の周りで、憲一とつながりを持つ人たちが一人、また一人と殺されていく。手段は青酸カリによる毒殺。少し話は脱線するが、ウィキペディアによると、日本で最初に青酸カリが殺人に使われたのは、1937年(昭和10年)の浅草青酸カリ殺人事件だったそうである。なんでも、1948年 (昭和23年)に起きた帝銀事件の犯人は、「この事件(浅草青酸カリ殺人事件)から(犯行手段の)ヒントを得たとされる」。青酸カリというのは、「メッキ工場や製鉄工場などでも使用され」ており、「昆虫標本の作成などにも青酸カリが使用され、薬局や文房具店で容易に手に入る」と知って、なるほど犯人が青酸カリを入手するのは想像するほど難しくはなかったのだろうと頷ける。

お見合い結婚

恐るべき事件が身近で続々と起こる渦中にありながら、若妻の禎子は比較的冷静に映る。これは、見合いから短期間で結婚した憲一とまだ半分他人のような間柄だった事、また憲一が10歳も年上で、夫が年齢の面でも遠い存在であったことに起因するのだろうか。禎子が憲一を捜索する過程で見合い結婚について考えるくだりは興味深い。憲一の過去について自分が無知であったことに気づいた禎子は、「たいていの縁談がそうなのだ」、「現在に重点をおくあまり、過去の履歴はさほど追及されない。結婚というものが現在から出発して成就するために、縁談はどこか、過去を敬遠するところがありはしないか」と思いを巡らせる。

「パンパン」との遭遇

夫の失踪の真実に迫ろうとする努力を重ねるなか、禎子が示す感の鋭さと観察力は印象的である。たとえば、金沢で夫の得意先を訪ねた折、そこで出会った受付嬢が禎子に対して何か特別な好奇心を抱いているような感覚をおぼえる。また、同じ受付嬢がアメリカ人の顧客と話しているのを聞いて、受付嬢が、米国の占領下、食料や生活必需品を手に入れるために米兵に身売りをして生き延びていた「パンパン」(ガール)だったのではと思いつく。彼女の英語が、「変則的な、幼稚と達者とが妙に混じっているような、下等なボキャブラリーを平気で駆使している米語」だったためだ。米国占領下の日本では、「パンパン」たちを取り締まるために、警察に風紀係なるものもあったらしい。最初に発見される殺人の犠牲者は、パンパンのような身なりをした女と一緒にいたという報告もある。この受付嬢との遭遇は、後に禎子が一連の事件を考える過程で重要な鍵となる。

謎解きの主人公

種明かしをするつもりはないが、この物語における謎解きの旅は、禎子とともに始まり禎子とともに終わる。母一人子一人という家庭の出身で、地味で物静かではあるが、彼女は見事なまでにストイックで、母親に心配をかけまいとする配慮も怠らない。一貫して見事に自立しているしっかり者である。一連の事件を経験したあとの彼女には、一体どんな人生が待っていたのだろうかと想像せずにはいられない。

謎解き以上の価値

殺人犯は誰か、そして犯行の動機や凶器は何かなどと想像しながらストーリーを追うのが推理小説を読む醍醐味だが、本書にはそれ以上の重みがある。この作品は、日本が戦後の経済大国としての位置を確立する以前の過渡期に、人々がどのような社会に生きていたのかを垣間見るチャンスを与えてくれる。たとえば先に言及した「パンパン」。進駐軍兵士との関係を糧にやりくりしていた彼女たちは、占領軍が撤退してしまうと、その過去を隠しながら別の途で生活を立てる苦労をしなければならなかった。彼女たちを見る世間の目は辛辣であったことだろう。

この物語の舞台の大半は能登半島である。今年の元日に発生した地震が当地に大きな被害をもたらしたことは私たちの記憶に新しい。多くの人々が今も避難生活を余儀なくされているばかりでなく、継続中の復旧作業は今だに度重なる地震や作業人員の不足に悩まされている。冬の、暗くて寒さの厳しい当地を、夫を求めて捜し歩く禎子の姿を追いながら、地震発生直後の被災者たちの不安と苦労がいかばかりだったかと思いをはせた。

エドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リー」

禎子は能登半島の海岸に立つたびにこの詩を心でうたった。邦訳は一部本文に紹介されているが、ここに全原文を紹介する。

Annabel Lee
BY EDGAR ALLAN POE

It was many and many a year ago,
    In a kingdom by the sea,
    That a maiden there lived whom you may know
    By the name of Annabel Lee;
And this maiden she lived with no other thought
    Than to love and be loved by me.
I was a child and she was a child,
    In this kingdom by the sea,
But we loved with a love that was more than love—
    I and my Annabel Lee—
With a love that the wingèd seraphs of Heaven
    Coveted her and me.
And this was the reason that, long ago,
    In this kingdom by the sea,
A wind blew out of a cloud, chilling
    My beautiful Annabel Lee;
So that her highborn kinsmen came
    And bore her away from me,
To shut her up in a sepulchre
    In this kingdom by the sea.
The angels, not half so happy in Heaven,
    Went envying her and me—
Yes!—that was the reason (as all men know,
    In this kingdom by the sea)
That the wind came out of the cloud by night,
    Chilling and killing my Annabel Lee.
But our love it was stronger by far than the love
    Of those who were older than we—
    Of many far wiser than we—
And neither the angels in Heaven above
    Nor the demons down under the sea
Can ever dissever my soul from the soul
    Of the beautiful Annabel Lee;
For the moon never beams, without bringing me dreams
    Of the beautiful Annabel Lee;
And the stars never rise, but I feel the bright eyes
    Of the beautiful Annabel Lee;
And so, all the night-tide, I lie down by the side
    Of my darling—my darling—my life and my bride,
         In her sepulchre there by the sea—(海沿いの墓のなか)
       In her tomb by the sounding sea. (海ぎわの墓のなか)


    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です