柚木麻子著「BUTTER (バター)」
ブラック・ウィドウ
財産目当てに、富裕な男性と結婚しては相手を殺す悪女たち。彼女らが「ブラック・ウィドウ」と呼ばれるのは、この種の黒グモが交尾後に雄グモを食い殺すからだそうである。柚木麻子の小説「Butter」に登場する梶井真奈子は、年配で財産家の男性を次々に殺したという罪で東京拘置所に服役中の死刑囚である。梶井への世間の好奇心は、「逮捕から日が経っているにも関わらず」、「根強く離れ」ず、彼女には「カジマナ」というニックネームまである。悪行の実態もさることながら、お世辞にも見目麗しいと言えない梶井の肥満体が、一層世間の興味をそそる。少なくとも外見に関しては、華奢で従順そうな’かわいい’女性が優遇されがちの日本社会において、梶井のような存在が男性たちを一体どのように誘惑したのだろうか。
本書のヒロイン
本書の主人公は 町田里佳。30代初めで、週刊『秀明』の記者 である彼女は、梶井が犯した連続殺人事件の真相とその社会背景に迫るだけでなく、取材を通じて「自分自身の生きづらさのようなものにもしっかり向き合ってみたい」と思っている。外見は梶井真奈子とは対照的で、体型維持のために「体重は決して50キロをこえないように気をつけて」、「夜間は極力食べないようにしている」。背丈があり「切れ長の目と細面の男顔」の彼女は、「女子高時代には後輩からよく手紙をもらっていた」ほどである。
里佳が梶井とのインタビューにこぎつけるのは大変であった。なかなか面会したがらなかった梶井をやっとのことで承諾させた背後には、里佳の大学時代の親友のアドバイスがあった。アドバイスのとおり里佳は、料理好きの梶井に「あの時のビーフ・シチューのレシピをぜひ、教えてください」と聞く。果たして梶井は里佳の面会依頼を受け入れ、里佳は念願の特集記事を書くために足しげく東京拘置所に通いはじめる。
取材と並行する自己発見
本作品を通じて読者は、ジャーナリストが取材に並々ならぬ時間と労力を費やすことを学ぶ。インタビュー対象者に関する下調べや当該人の親族や関係者からの情報収集だけではない。本作品のヒロインは潜り込み捜査まがいの取材も実行する。里佳が梶井との接点を求める目的で最初に行うのは、かつてあまり縁がなかった料理である。梶井との会話を機に、里佳は食に目覚めていく。おいしい食材を味わい楽しむことに価値を見出し、「食べたいものを自分で作って好きなように食べる。これを豊かさと呼ぶのではないか」とまで思うようになる。
体型維持に気をつけていた里佳の体重が増えるに従い、まずボーイフレンドの藤村誠が反応する。そして、親友の伶子まで大いに動揺する。周りは里佳が太ったことで、あたかも自分のアイデンティティーが覆されたかのように動揺し、想像もしなかった行動に出る。里佳は、それまで避けていたトラウマと向き合い、自身の生い立ち、家族や友人・同僚たちとの関係、さらには恋愛をも新しい観点から見据えるようになる。そしてその成長は、次第に周囲を支える力に発展する。
食の描写
著者柚木麻子が描く食の表現の巧さには驚嘆させられる。たとえば、醤油バターご飯。これは、梶井が「バターの素晴らしさが一番よくわかる食べ方」として里佳に薦める最初の一品である。「冷たいバターと温かいご飯」は、醬油とバターが「混じり合い、それは黄金色の泉」になり、「バターの絡まったお米の一粒一粒がはっきりとその存在を主張して、まるで炒めたような香ばしさがふっと喉から鼻に抜ける。濃いミルクの甘さが舌にからみついていく…」。米の描写にはこんな箇所もある。ご飯茶碗に「こんもりと盛り上がる白い光」を味わうと、お米の「一粒一粒がきゅっと甘い。舌の上で米粒が立ち上がり」、「噛めば頬の内側が緩やかに弛緩し」、「みぞおちのあたりからやわらかな熱が湧いてくる」。こんな風に書かれると、読者が空腹でなくてもついつい唾をのまされ、誰もがこういう味を求めて美味しいものを食べ歩きたくなってしまうだろう。
女性の生きざま
本書に登場する女性たちの多様性にも注目していただきたい。主人公の町田里佳はもとより、離婚後は夫のサポート無しに、働きながら里佳を育てた彼女の母親、かつては名物記者といわれた「週刊秀明」の先輩水島依子や同僚・後輩たち、高級フランス料理学校のオーナーやライバル社の女性記者などの働く女性たちだけでなく、料理学校に通う良家の専業主婦たちや、里佳の親友狭山伶子のように、仕事の才能がありながらもキャリアの道を捨て、主婦・母親としてのアイデンティティーを模索する女性も登場する。それぞれが、決して理想的とは言えない環境の中にありながら、自身の求めるものを目指して日々努力している姿には胸を打たれるものがある。
余談
実在のブラック・ウィドウ
本書に登場する梶井真奈子には実在のモデルがおり、それは、2007年から2009年にかけて3~6人の男性を毒殺したとして東京拘置所に服役中の死刑囚・木嶋佳苗である。木嶋は本書の「カジマナ」同様、ブロガーとしても知られており、ライブドアには今でも彼女の拘置所日記が掲載されている。最近の投稿記事の中で彼女が言及しているノンフィクション作家の石田妙子氏は、本書のヒロイン町田里佳のモデルであろうか。かつてはその肥満体で注目を浴びた木嶋だったが、何でも拘留生活中に大量の減量に成功し、ブログではダイエットのアドバイスもしているとか。長年刑務所生活をしていれば減量できない方が珍しいはずなのだが、減量アドバイス記事を有料にしているところなど、彼女のしたたかさがうかがわれる。
日本のブラック・ウィドウは木嶋佳苗だけではなかった。2024年師走、日本のメディアは、4人の高齢男性を毒殺した罪で大阪の刑務所に服役していた死刑囚・筧千佐子(78)が獄死したことを相次いで報道した。筧千佐子は、近年の日本のブラック・ウィドウの中でも木嶋佳苗と並んで悪名高き犯罪者であったようだ。
高級バターの味わいと応用
ストーリーには、丸の内にあるフランス製エシレ・バターの専門店「Échiré – Maison du beurre – メゾン・デュ・ビュール」、銀座の有名菓子店「ウェスト」、さらに恵比寿ガーデン・プレイスのフレンチ・レストラン 「ジョエル・ロブション」などの実在する高級店が登場する。本書は読者に、著者の絶妙な食の描写を通じて求めるべきバターの資質や種類を教えてくれるばかりか、良質のバターをフランス料理の領域を超えて応用してみようというインスピレーションを与えるという付加価値も備えている。
英訳版の人気
本書は、自身もノンフィクション作家である英国人のポリー・バートンによる英訳版が、昨年4月(英国)と10月 (アメリカ)に出版され、英語圏でも大きな人気を集めている。2024年には、Waterstones Book of the Year「ワーターストーンズ(英国版のバーンズ&ノーブルのような有名書籍販売チェーン店。双方とも米国の投資会社エリオットに所有されている)書店年間ベストブック賞」も受賞している。この賞が翻訳書に授与されたのは本書がはじめてということは、バートンの翻訳の優秀さを示しているといえるであろう。英訳があるお陰で、日本語を読まない友人たちとも本書について語り合うことができるのはうれしいことである。
国立音楽大学および大学院修了。フリーランス司法通訳・翻訳者。ニューヨーク、パリ、東京を経て、1997年より首都ワシントン郊外に在住。夫と息子三人の五人家族。