「嫉妬 / 事件」アニー・エルノー著

「嫉妬 / 事件」アニー・エルノー著

「嫉妬 / 事件」アニー・エルノー著

2022年に上映されたフランス映画「あのこと」を観て、少なからずショックを受けた。1963年のフランス。中絶が違法だった時代に、労働者階級出身の賢く美しい女子大生が予期せぬ妊娠をしてしまい、学業を続ける為に、危険な中絶方法に頼り困難を乗り越えようとする話である。そして原作は、2022年にノーベル文学賞を受賞した、現代フランス文学を代表する作家アニー・エルノーが、自らの中絶体験を綴った短編小説「事件」だと知り、俄然彼女に興味が湧き本書を手に取ることとなった。

わたしに起きた「事件」

本作は、アニー・エルノー本人の「わたし」という一人称で語られている。彼女は作家となり、23歳の女子大生だった時に経験したことを、今書かずには死ねないという強い欲求に突き動かされる。

「1963年の10月、ルーアンで、わたしは生理がやってくるのを一週間以上待っていた」。文学部の学生だった彼女にとって、頭の中を占めているのは文学者アンドレ・ブルトンでもルイ・アラゴンでもなく、自分の内部で進行しつつあるものだけ。お腹に何も宿していない女子学生たちと自分とは、もはや同じ世界には属していないと感じていた。

彼女のような娘の来院は、医者にしてみれば、自分を監獄に送る可能性がある法律を思い出させる。それは、中絶するために自ら行う危険な試みや、モグリの医者が処置で女性を死なせることを禁ずる法律だが、免許を持つ医者にとっては、職を失う危険を意味していた。

空しい試みの末、彼女はパリ17区の老朽化したアパルトマンに住む「天使製造者」のマダムのもとに辿り着く。「天使製造者」とは、当時医師の資格を持たない、非合法に中絶を行う女性のことである。しかしその処置は順調にはいかず、結局彼女は病院に担ぎ込まれる。

「わたしが経験したあの中絶の形式 − 非合法な形式 − はもう過去の話に属するのだけれど、だからといって、埋もれさせてしまってもよい理由があるとは思えない」。不安や恐怖や怒りの中、自らの壮絶な経験を書き残した彼女の勇気に、同じ女性として感銘を受けた。

作家アニー・エルノーとは

1940年にフランス北部ノルマンディー地方でカフェ兼食料品店を営む両親のもとに生まれ、教師になり34歳で作家デビュー。労働者階級出身で女性として様々な格差に直面してきた彼女は、本書で自身の辛い体験を題材にした理由を、中絶を法的に認めず女性を守ってくれなかった国家に対する、強い憤りが原点にあったと話す。

数多くの自伝小説を発表してきた彼女だが、自らの体験をナルシスティックに語るのではなく、その視点はあくまでも冷静で、行動や心境を圧倒的なリアルさで淡々と記している。当時は罪であった体験を書き残すことで議論が生まれ、同じような体験をした人たちが背負っている重荷を、少しでも下ろす手助けとなっているのかもしれない。

中絶合法化の歴史

フランスでは1975年まで中絶は非合法で、本人だけでなく、何らかの処置を施した者、医師、助産師、薬剤師にも厳しい罰が科せられた。女性解放運動の高まりの中で、1971年に中絶の合法化を求める「343人のマニフェスト」が発表される。シモーヌ・ボーヴォワール、マルグリット・デュラス、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャンヌ・モローら著名人を含む343人の女性たちが「私は中絶したことがある。つまり法律に違反した」と勇気ある証言をしたのである。更に1973年には「中絶を施術したことがある」と証言し、合法化を要求する「331人の医師たちのマニフェスト」が発表され、国民議会での討論の末、ようやく1975年1月に合法化される。これはカトリック主要国では初だとか。

女性たちが手に入れた権利は、宗教や政治によって呆気なく覆されてしまうこともある。女性が妊娠を続けられないと苦渋の決断をした時、安心して安全な環境で処置を受けられるような世界であってほしいと願うし、それは女性にとって最低限守られる権利だと思う。

最後に

本書に関連するおススメの映画を2本。

「あのこと」オードレイ・ディヴァン監督 2021年 フランス
本書を映画化した本作は、第78回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。監督はフランスの新鋭オードレイ・ディヴァン。彼女が中絶を経験した時に、自分に寄り添ってくれるような本を探してしていて、本書と出会い衝撃を受けたのだと。あの時代に起こったありのままを、観客にも体験してほしいと映画化に踏み切ったそうだ。

主役のアンヌを演じたのは、当時22歳のアナマリア・ヴァルトロメイ。意志の強そうな大きな瞳で未来を見つめ、知的な美しさをたたえた彼女だが、その体当たり演技は心に響く。本作をホラー映画のようだと評している方もいるが、ホラーとは危険や痛みが絶対に我が身に降りかかってこないという前提で、作り物の恐怖を楽しむものだ。本作は紛うことなき女性の現実であり、それを経験した女性たちの不安や耐え難い痛みを、真正面から逃げることなく描いた作品である。ぜひ男性に観てほしいと強く願う。

「コール・ジェーン 女性たちの秘密の電話」フィリス・ナジー監督 2022年 アメリカ
1968年シカゴ。主婦のジョイは2人目の妊娠で心臓の病が悪化。当時中絶は許されておらず、違法だが中絶を手助けする女性団体に助けを求める。1960年代後半から70年代初頭にかけて、中絶を希望する女性たちを救った実在の団体「ジェーン」を描いたドラマで、「あのこと」と比べるとハリウッド映画らしくエンタメ性が高いが、ウーマンリブの活動や闘いが、やがて米最高裁の「ロー対ウェイド判決」に繋がるということで、興味深い作品である。


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