特集「女性のリーダーシップ」:マーガレット・サッチャーの人物像

日本初の女性首相となった高市早苗氏が目標としている政治家は、マーガレット・サッチャーとのことだ。ではサッチャーとはどんな首相だったのか、振り返ってみたい。

サッチャーは、英国初の女性首相、「鉄の女」、レーガン米大統領と固い絆を結び冷戦終結に貢献した信念の政治家として知られる。保守党党首15年、首相11年と長期政権を実現できたのは、政治家としてどこが優れていたのか、そして米大統領の信頼を得、強い影響力を発揮できたのはなぜだろう。

人間サッチャーとは

サッチャーを知る人は誰もが彼女は揺るぎない強い信念の人であったと言う。経済では徹底した市場主義、外交安全保障では強固な反共産主義であった。その激しさから、サッチャー首相に「鉄の女」と命名したのはソ連の国家軍事専門紙であった。

サッチャーがことさら強さを見せる必要があったのは、冷戦の真っただ中、ソ連という敵に対してだけではなかった。根強い階級社会で男性優位の英国政界で食料品屋の娘が首相になり、それも近代英国史最長の政権を実現するのは並大抵のことではなかった。頭脳明晰さや巧妙さ、そして夫や閣僚、側近の支え、運のおかげばかりでない。

オックスフォード大学で化学を学び、多くの英国首相やリーダーを輩出した同大学の保守協会会長となり論議の技を磨いた。睡眠時間は3-4時間、昼寝20分と言われた究極の働き人間であった。英国では発音で身分や地位を判断され卑下されるため、専門の教師につき発音を直し、女性特有の高い声を下げる訓練もした。美貌に恵まれたが、小柄だったサッチャーにとって服装はもちろん、ハンドバックも国内外の厳しい目のなかで生き抜くイメージの必要不可欠な小道具だった。

揺るぎない信念を強硬に貫くのは頑固さでもあり、妥協できない弱さでもあった。これが経済改革や労働組合との対決につながり、最後には国民や党の支持を失うことになった。

政治家や市民、アメリカをはじめ国外にファンも多かったが、特に英国ではいまだに支持と批判両方の激しい感情を招く人物である。実業家であった夫デニスに支えられたサッチャーは夫の死後深い悲しみに陥ったが、二人の子供との関係は決して良くはなかった。

アメリカの信頼を得る第一歩

世界にとってサッチャーの最大の功績は、冷戦終結に大きく貢献したことである。ロナルド・レーガン米大統領とミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が同時期に米ソ各々のリーダーでなければ和平は実現しなかった。しかし、ゴルバチョフはこれまでのソ連の指導者とは違い、話し合いができる人物と見抜き、それをレーガンに強く助言したのはサッチャーだった。ともに市場主義、そして自国内にも懸念を抱く市民がいるほど強硬な反共産主義であったばかりか、アメリカが厳しい立場に置かれた場合はアメリカを支え、大統領が非難されれば救いの手を差し伸べる英国首相という厚い信頼があったからである。

この信頼関係はいかに築かれたのであろう。サッチャーとレーガンが最初に会ったのは1975年4月、サッチャーは野党保守党党首に選出されたばかり、レーガンはカルフォルニア州知事を引退したばかりの元二流どころか三流の俳優であった。にもかかわらずサッチャーがレーガンとの面談に応じたのは、同氏が自分と同じく強い保守思想を抱く政治家だったからである。そして二人はすぐに意気投合した。自由民主主義が圧倒的な力をもって共産主義を制圧しようという決意をもった保守政治家同士だっただけでなく、サッチャーが美しく、女性的魅力に富み、レーガンはそうした女性に弱かったことも二人の関係を強めた。

1979年5月に首相の座に就いたサッチャーは、12月には訪米してカーター大統領と会談した。くしくもその前月、イランのアメリカ大使館が反米のイラン人学生に占拠され、大使館員など52名が人質になるという大事件が起きていた。サッチャーはホワイトハウス前でカーター大統領に「アメリカがイランに経済制裁を課すならば、英国は全面的に支援する」と宣言した。他国に先駆けての鮮明な支持表明は、信頼できる同盟国の首相というイメージをつくるきっかけとなった。

レーガンの苦境を支えたサッチャー

英首相官邸での首脳会談

6-5-1984 Trip to United Kingdom, President Reagan meeting with Prime Minister Margaret Thatcher of United Kingdom at 10 Downing Street 英首相官邸での首脳会談

レーガンには野蛮なカウボーイで、核兵器のボタンに近寄らせてはならない、あまり賢くないから、あんちょこのカードがなければ首脳会議も質疑応答も対応できないといったイメージがつきまとっていた。特に欧州では何をしでかすかわからないという不安が広まった。

サッチャーはその野望なイメージ払しょくにも貢献した。1982年3月アルゼンチンが英国領フォークランド諸島に侵攻した。13,000キロ余り離れた南大西洋の領地の奪還は不可能とみる向きが強かったが、サッチャーは見事成功させ、国内外の人気や信用が一気に高まった。サッチャーはその高い評価をもって、先進国首脳会議など国際会議でレーガンのリーダーシップを称え、しばしば「ロンと私は」と二人の見解が一致していることを強調した。

1984年12月キャンプデイヴィッドで

1984年12月キャンプデイヴィッドで

1986年にイラン・コントラ事件が発覚した。レーガン政権がレバノンでテロリスト集団に捕らえられているアメリカ人解放のためにイランに武器を売却し、その代金をニカラグアの反共右派ゲリラ「コントラ」の援助に流用していたという事件である。テロリストとの取引や議会承認なしの資金提供は、レーガン政権最大の危機を招いた。レーガンへの批判が激しくなっていた1987年7月、サッチャーはホワイトハウスにレーガンを訪ねた。昼食後記者団の前で「今までにもまして我々はアメリカの指導力を必要としています。そしてみなさんの大統領はそれを提供できる唯一の人であり、レーガン大統領はまさにその力を発揮するでしょう。ここ数年で蓄積した成果を逃してはなりません。」とレーガンが担う役割の重要性を強調した。一定のカテゴリーの核兵器を全廃させる歴史的な中距離核戦力全廃条約に米ソが調印し、冷戦終結を加速させたのはそれから半年後であった。

サッチャーはレーガンの夢の実現も後押しした。今ウクライナやイスラエルで効力を発揮しているミサイル迎撃システムは、1983年に戦略防衛構想としてレーガンが発表したが、当時は「スターウォーズ」と国内外から映画俳優の夢物語のように扱われた。自然科学を学んだサッチャーも実現性は疑わしいと感じたが、レーガンにとって核を無効にする手段として掛け替えのないプロジェクトであることを汲んで支持を表明した。

1987年ヴェニスでのサミット

1987年ヴェニスでのサミット

信念を支えた卓越性と弱点

サッチャーの巧妙さは、アメリカと「肩と肩を並べ」、大統領の信頼をえることだけではなかった。アメリカの外交戦略はもちろん、核兵器やミサイル開発などの知識を積み上げ、北大西洋条約機構やアメリカの核戦略に精通した。訪米時には国務省や国防総省を訪れ、トップばかりか現場の専門家たちと議論を交わした。その熱心さや知識の深さは大統領の側近たちをはじめ、国防総省や国務省のなかにサッチャーへの畏怖、そして米大統領を支える指導者への感謝と尊敬の念がひろがった。

広く、深く構築した関係が功を奏したのが、フォークランド紛争であった。サッチャーは迷うことなくフォークランド諸島奪還を決意したが、アメリカの支援なくしてはまず不可能であった。しかし、アメリカ政府内はアルゼンチンが国際法に反する不当な行為を行ったことでは一致していたものの、奪還の現実性では分かれていた。懐疑派の代表はジーン・カークパトリック国連大使。一方何が何でも英国支援派の先鋒はキャスパー・ワインバーガー国防長官であった。

アルゼンチンの侵略からわずか3日後、米国防総省内にはタスクフォースが設置された。南大西洋のアセンション島基地の使用許可、戦闘機燃料はもちろん、最新の戦闘機発射ミサイル、潜水艦探知機、ヘリコプターエンジンなど母国からはるか離れたフォークランド諸島での戦闘を可能にする機材や諜報、軍事衛星チャンネルも提供された。大統領から具体的な指示があったわけではない。レーガンの言葉は大まかだったが、最終的にはサッチャーを裏切らないと信じていたとワインバーガーは述べている。現場も同じであった。サッチャーの英国のためにできる限りの支援をするのは当然と考えていた。

サッチャーは頭脳、洞察力、勤勉さ、そして人間力により、大統領ばかりでなくアメリカの政権や議会、官僚、軍、そして国民から深い信頼と尊敬を得た。しかし、税制や欧州統合への姿勢など、イギリス国民の心を読み切れなくなった思いこみや思い上がりにより党と国民から見放されることになった。1990年11月、11年208日務めた座から去った。


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