ジョン万次郎:国際人第一号 大局的見地から日本の将来に貢献
アメリカの小学校でジョン万次郎を知る
「Excuse me, are you Japanese? 」と、息子たちの通うマサチューセッツ州ボストン近郊の小学校で子供から質問された。「Yes」と答えると、その子供は喜んで「僕たち、社会科の授業で日本について勉強しているんだ(と英語で話して)、「イチ、ニー、サン、シー・・・」と日本語で数字を数え始めた。それから次男が小学2年生になり、社会科の授業で2ヶ月ほど日本の文化、歴史、生活習慣を勉強してから、アメリカと比較するカリキュラムが組まれていることを知った。同州全ての公立小学校が同じようなカリキュラムを持っているのではなく、各市町村に判断が任されているようだ(注1)。次男の担任曰く「(英語で)歴史的にマサチューセッツ州と日本は深いつながりがあるので、その影響かもしれません。もしよければ、社会科の授業で日本の学校のしくみについて、子供たちに説明してもらえたら嬉しいです。」ということで、話に行くことになった。
そこで、アメリカ人の子供たちが興味を持ちそうなマサチューセッツ州由来の日本人を探し始めたところ、ニューベッドフォード(New Bedford) の捕鯨博物館で、その対岸のフェアヘイブン (Fairhaven)にジョン万次郎が住んでいたことを知る。万次郎は、アメリカに最初に住んだ日本人であり、アメリカの学校を最初に卒業した日本人なので、子どもたちも万次郎に興味を持つと思った。
ジョン万次郎とはどんな人?
ジョン万次郎(英語名:John Mung、本名:中濱 萬次郎)は、土佐(高知県)出身で鎖国中の1841年、14歳の時、漁に出て嵐に遭遇し、仲間4人と難破、漂流して無人島に住んでいた。その時、マサチューセッツ州の漁村フェアヘイブンのホイットフィールド船長 (William H. Whitfield)率いる捕鯨船のジョン・ハウランド号( John Howland)に助けられた。捕鯨船の持ち主の1人は、ウォーレン・デラノ・ジュニア(Warren Delano, Jr.)であった。 船長は、万次郎の利発で何でもよく気づく性格が気に入り、次の寄港地のハワイで、「自分の住むマサチューセッツ州のフェアヘイブンに来ないか」と誘った。万次郎は悩んだが、船長から見せられた世界地図を見て、いかに日本が小さいかを自覚した。地図を読みたい、英語の文字を習いたい、世界を見たいという興味と向学心からアメリカ行きを決心した。
1843年にジョン・ハウランド号は、万次郎を乗せて船長の住むフェアヘイブンに着いた。そして現地のオールド・ストーン・スクールハウス〈Old stone schoolhouse: 1教室で1人の教師がすべての年齢の生徒を教える日本の寺子屋のような学校〉に入学した。たった1人の留学生で、英語の読み書きに苦労したが、優秀な成績で卒業した。その後、船長や航海士養成を目的としたバーレット・アカデミー(航海術、測量、造船学を教える私立高校に相当)で学んで、1846年に卒業した。
今もアメリカ人たちを惹きつけるジョン万次郎
ジョン万次郎がフェアヘイブンも含めてアメリカで過ごした1843年から1850年は、アメリカの捕鯨の黄金時代だった。捕鯨は、ハーマン・メルビルの書著の『白鯨』(Moby Dick by Herman Melville:捕鯨について書かれた小説)に詳しく書かれている。ちなみにスターバックスコーヒーのスターバックは、『白鯨』の中に出てくる一等航海士の名前に由来する。メルビルの住んでいたニューベッドフォードから3キロ離れた入り江の対岸にフェアヘイブンがある。
息子の小学校で、万次郎の話をしているときに、「(英語で)万次郎とメルビルの船は無意識の間にすれ違っていたかもしれないね。(後の調査で知ったのだが、万次郎がフェアヘイブンに来たのはメルビルが捕鯨航海に出た後だった)」と子どもたちに伝えると、「(英語で)私はジョン万次郎を知っているよ。」と手を挙げた子どもたちが3人いた。
アメリカでは、ジョン万次郎を題材にしたアメリカ人著者の本(注2)が出版されている。マーギー・プロイス(Margi Preus)によるジョン万次郎の本『Heart of a Samurai』は、権威あるニューベリー賞を受賞し、息子の学区や近郊のミドルスクールは、この本を夏休みの課題図書にしていることもある。無人島生活、異国での生活、捕鯨漁体験を経て日米友好に貢献した万次郎の実話は、アメリカ人たちを惹きつけるのだろう。
ジョン万次郎、日米和親条約締結に尽力
ジョン万次郎は1851年24歳の時、琉球(現在の沖縄)に上陸して帰国した。琉球は当時、薩摩藩(鹿児島県)管轄であり、藩主は列強の情勢を知り富国強兵を唱えていた島津斉彬だった。そして、万次郎の実家は土佐藩内の中濱村(高知県)にあり藩主は山内容堂だった。そこで、万次郎は両藩主との謁見が許され、アメリカや世界情勢について伝えている。アメリカで航海の必読書であった「新アメリカ実用航海学 The New American Practical Navigator」を和訳している。その後、1853年にペリー提督率いる日本遠征艦隊が来航した時、万次郎は幕臣になって、幕府上層部に開国の重要性を説いて日米和親条約締結に尽力した。翌1854年に日米和親条約が締結した。その時、日本が開国しなければ、今の日本はなかったかもしれない。
大局的見地から、物事を考える重要性
ジョン万次郎は、日本人で初めてアメリカに住み、アメリカの教育を受け、船で世界一周した国際人第一号である。当時、世界情勢を見聞きした唯一の日本人だったのではないだろうか。ペリー提督が日本に開国を迫った時、万次郎の助言如何によっては、近隣諸国のようになっていたかもしれない。
無人島で救助された万次郎が乗船したジョン・ハウランド号は、第32代アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトの祖父にあたるウォーレン・デラノ・ジュニアが所有者の1人であった。フェアヘイブンに住んでいたデラノは、万次郎を気に入って、よく彼と話をしたそうである。デラノが参画していたラッセル商会は、ペリー提督が日本上陸する前に寄港した中国の広東や上海で宿泊などの手配をしている。当時の中国は、アヘンが蔓延していた。
万次郎はジョン・ハウランド号、そして正式な捕鯨船員として捕鯨船フランクリン号に乗船した。両方の航海記録によると、中国に寄港した記録は見当たらない。しかし、万次郎はアメリカや世界の寄港地で、中国を含め諸外国の状況を見聞きし、当事の世界情勢を知っていたのだろう。万次郎はその貴重な情報を自己利益や目先の判断にとらわれず、大局的見地から日本の将来を考えて動いたからこそ、今の日本があるのだろう。
原稿を書き終えて
昨年、次男の小学校の社会科の授業に日本をテーマとして、5回ほど説明に行きました。アメリカの公立小学校の中には、日本について教える社会科のカリキュラムがあることを知って驚きました。その話題作りで出会ったのがジョン万次郎であり、調べていくうちに私も万次郎に勇気付けられました。将来、この子たちは、組織や国を背負っていくかもしれません。その時は、ジョン万次郎を思い出して、大局を見据えて物事を判断できるような大人になってほしいと願います。今回「海外で日本の歴史に直面する時」で寄稿の機会を下さったWJWN VIEWS編集部に感謝します。
- 注1:マサチューセッツ州の行政単位:マサチューセッツ州は、カウンティー内は、全て市町村に区分けされている。行政単位は、各市町村(シティーとタウン)なので、各市町村がパブリックスクールを運営している。例えば、各市町村で幼稚園(キンダー)の就学年齢(誕生日のカットオフ)を決めたり、小学校、中学校、高校の年数を、4年、4年、4年や5年、3年、4年など決めている。
- 注2:アメリカ人著者による小中学生向けジョン万次郎の本:小学生低学年向け「Manjiro: The Boy Who Risked His Life for Two Countries 」著者:Emily Arnold McCully(「Mirette on the High Wire」 でコールデコット賞受賞)。
小学生中高学年向け:「Shipwrecked! The True Adventures of a Japanese Boy」 著者:Rhoda Blumberg (「Commodore Perry in the Land of the Shogun」でニューベリー賞受賞)
中学高校生向け:「Heart of a Samurai」 著者:Margi Preus。2011年のニューベリー賞受賞作。翻訳版として「ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂」(著者:マーギー・プロイス)で出版 - 日本語の本:ジョン万次郎:著者:星亮一
米国病院経営士会・認定病院経営士、薬剤師(日本)、ノースカロライナ州保険部認定・メディケアカウンセラー 。ワシントン大学・大学院医療経営学部卒業。アメリカの病院でビジネス開発アナリスト、医療機関でボランティアや執筆活動を続けながら全米を縦横。現在はNCに在住し、メディケアのカウンセリングする傍、ら生け花を地元コミュニティに紹介し、文化交流にも積極的に取り組む。著書「病院の内側から見たアメリカの医療システム(新興医学出版社)」、共著「医療改革と統合ヘルスケアネットワーク―ケーススタディにみる日本版IHN創造(共著者:松山 幸弘、東洋経済新報社)」