原爆誕生の地へ

『トリニティー・サイト』

ホワイトサンズ・ミサイル実験場への道しるべ。トリニティー・サイトの名称の由来とバガヴァッド・ギーターの一節の説明がある

ホワイトサンズ・ミサイル実験場への道しるべ。トリニティー・サイトの名称の由来とバガヴァッド・ギーターの一節の説明がある

今年7月に再び、米ニューメキシコ州アラモゴードにある『トリニティー・サイト』を訪れた。アルバカーキ空港から車で1時間ちょっとかかる、この地を訪問するのはこれで3回目。夏は日中40度以上になる米陸軍ホワイトサンズ・ミサイル実験場内にあるこのサイトで、人類発の核実験が行われたのは72年前、1945年7月16日のことだ。ここで実験されたのは、長崎に投下されることになるプルトニウム原子爆弾だった。

この場所になぜ、キリスト教における三位一体説を表すトリニティー(Trinity)という名称がつけられたのだろうか。核爆弾開発をしていたロスアラモス研究所長ロバート・オッペンハイマーが、イギリスの詩人ジョン・ダンの詩から引用したものと言われている。

‘As West and East
In all flatt Maps—and I am one—are one,
So death doth touch the Resurrection.’
(“Hymn to God My God, in My Sicknesses”)
‘Batter my heart, three person’d God;’
(Holy Sonnets XIV)

核爆弾が組み立てられた部屋

核爆弾が組み立てられた部屋

資材が、実験場近くにあるマクドナルド牧場に到着したのは7月12日のこと。牧場内にある家の一室でプルトニウムのコアを内蔵した核爆弾が組み立てられ、14日、実験塔の上部に設置された。トル―マン大統領は7月16日に始まるポツダム会議の前の実験を求めていたため、 7月16日午前4時に実験する予定だった。が、雷雨のせいで延期され、実際に爆発したのは午前5時29分だった。周辺は日中のような明るさになったと言われている。爆弾は19ktの威力で、キノコ雲は高度12キロに上昇した。

By Jack W. Aeby, July 16, 1945, Civilian worker at Los Alamos laboratory, working under the aegis of the Manhattan Project. This image comes from the Google-hosted LIFE Photo Archive where it is available under the filename 96ad5a9a5c94664e.

By Jack W. Aeby, July 16, 1945, Civilian worker at Los Alamos laboratory, working under the aegis of the Manhattan Project. This image comes from the Google-hosted LIFE Photo Archive where it is available under the filename 96ad5a9a5c94664e.

この実験を目の当たりにしたオッペンハイマーは、ヒンドゥー教の叙事詩『バガヴァッド・ギーター』の一節が頭に浮かんだと後日、述べている。
「我は死なり、世界の破壊者なり」――。
オッペンハイマーは6カ国語を操り、その中にはサンスクリットも含まれ、『バガヴァッド・ギーター』を原書で読んでいたという。

実験塔があった場所に建てられた記念碑

実験塔があった場所に建てられた記念碑

その実験場には今や、記念碑が残るだけだ。砂漠の砂は溶けて、緑色のガラスに変化し、それは「トリニタイト」と命名されたが、現在でも僅かに残っている。

トリニティー・サイトは春秋、年2回、4月と10月の第1土曜日に一般公開される。今年4月には4000人が訪れたと報道官は教えてくれた。私は70周年だった2015年4月の一般公開日にも訪問したことがあるが、その時は6000人弱が訪問した。

一般公開日には犬を連れてくる人もいるし、ホットドッグなどの屋台や、Tシャツや核爆弾のイヤリングなどを売るおみやげ屋さんが並び、ちょっとお祭りムード。日本人の私には違和感がある。 2015年、「アメリカ・ファースト」主義風の人たちに声をかけても、取材には応じてもらえなかった。逆に「核爆弾投下して、ごめんなさい!」と広島を訪問したこともあるという女医さんなどが、謝罪の声をかけてくれた。

原爆使用はアメリカの歴史にとってセンシティブな問題だ。1995年、ワシントンDCのスミソニアンの航空宇宙博物館で広島に爆弾を投下したエノラ・ゲイを展示する際、広島平和記念館からの展示物を含めようとした企画したハーウィット館長は、退役軍人や連邦議会の反対に会ったため、辞任に追い込まれた。オバマ前大統領は、広島訪問を大統領就任2期目の最後の年まで待たねばならなかった。

1945年の世論調査によると、85%のアメリカ人が原爆使用を支持していた。70年後の2015年、53%が原爆投下を正当化されると考え、29%が正当化されないと考えるようになり、特に若い世代では反対する者が増えている。

アメリカの核実験の被害者たち

トリニティー・サイトの実験では、地元のアメリカン・インディアンの被爆者たちがいたという。アメリカはその後、ソ連との冷戦において、1945年から1992年まで1054回の核実験を行った。1954年3月1日にビキニ環礁での水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の事件は、日本人にとって衝撃的だった。黒沢明監督の『生きものの記録』は原水爆の恐怖を取り上げた作品だ。しかし、被爆者は日本人だけではなかった。

太平洋における被爆者だけでなく、ネバダ核実験場における1951年から1962年までの約100回の大気圏内核実験で、全米に放射能被害があった。特にユタ州セントジョージの「ダウンウィンダーズ(風下住民)」が大きな被害を受けた。彼らはアメリカ政府から「核実験は安全である」と伝えられ、核実験を丘の上から見学などしたが、実際には被爆していた。風向きが人口が多いラスベガス方向の時には、核実験は延期されたが、その他の場合はセントジョージなどの風下の人たちが被害にあったのだ。

セントジョージのクラウディアさんは、母、姉、6歳の娘をガンで失った。この町の住民は当時、彼女のようなモルモン教徒が大半だった。彼らは煙草も吸わず、お酒やコーヒーも飲まず、健康的な生活をしていた。でも健康的だと思っていた自家農園の野菜、酪農していた牛のミルクが実は放射能源となった。

クラウディアさんは娘の白血病の治療、死に至る話になると、今でも涙ぐむ。話を聴く私ももらい泣きしてしまう。彼女は何十年も経った今でも、「お医者さんになりたかったと言っていた娘が、実際に医者になっただろうか、家族を持っていただろうか」と考える。この町の発がん率は40%と平均の倍だ。今では被害者は2代目、3代目になっているが、その研究調査は実施されていない。

オペラ『ドクター・アトミック』

私は毎年、ニューメキシコ州のサンタフェで夏休みを過ごす。国内外のオペラ・ファンが集まるサンタフェ・オペラ・フェスティバルが主な目的だ。来年は、核爆弾の生みの親オッペンハイマーを主人公とした『ドクター・アトミック』が上演される。2005年のサンフランシスコ・オペラで初演後、2008年のメトロポリタン・オペラでの上演など、全世界で上演されてきたのが、やっと「地元」で上演の運びとなる。

オッペンハイマー役の主人公の印象的なアリアは’Batter my heart’という。


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