イサム・ノグチとトシコ・タカエズ展に想う 

ニューヨーク州ロング・アイランドにあるイサム・ノグチ庭園美術館を訪れたことはおありだろうか?美術館を訪問していなくても、ノグチといえば、岐阜提灯から発想したあかりシリーズや優雅な脚のテーブルなど、インテリアグッズを目にしたことがある方も多いのではないだろうか。

私自身はノグチの作品は、NY州ハドソン川沿いの屋外現代美術館ストーム・キングなどあちこちで目にしてきたし、歴史の激流に翻弄されたノグチの人生についてはドウス昌代による伝記で知っていた。でも長年、庭園美術館の存在を知りながら、NYに数か月毎には行っても、マンハッタン内の美術館の特別展をチェックすることが優先になってしまい、ロング・アイランドまで足を伸ばすことがなかった。近年、理事の方がご一緒にと誘ってくださってもいたのだが、突然、亡くなられてしまった。そのノグチ美術館でのメモリアルのビデオが素敵で、彼女を悼みたかったこともあり、大好きなトシコ・タカエズの特別展開催中ということで、ようやく5月に訪問した。

ノグチの人生

彼の波乱万丈の人生と作品は切り離せないので、簡単に紹介したい。

ノグチは1904年11月17日、ロサンジェルス生まれ。父は詩人の野口米次郎、母は作家レオニー・ギルモア。日本に帰ってしまった米次郎を追って、レオニーは3歳のイサムを連れて訪日。日本で差別されながら教育を受けるが、18年には単身でインディアナ州の高校に入学。卒業後、NYで最初はコロンビア大学医学部準備過程に入学したが、夜間は美術学校で彫刻を学び、才能を発揮し、彫刻に専念するようになった。卒業後、グッゲンハイム奨学金を得てパリで彫刻家ブランクーシのアシスタントを務め、夜間は美術学校に通った。

NY美術学校時代、NYで活躍中の日本人舞踏家・伊藤道郎のマスクを制作(ちなみに米国で活躍した伊藤は、戦後はアーニー・パイル劇場で活動し、1964年東京オリンピックの開会式・閉会式の総合演出を担当した人物。ジェリー伊藤の父)。その後、ノグチは舞踏家マーサ・グラハムなどとコラボして、舞台芸術も数多く手がけた。

第二次大戦勃発で、NY在住のノグチは日系人強制収容の対象外だったにもかかわらず、強制収容者たちに貢献したいと、アリゾナ州ポストン収容所に自ら志願して入所。庭園などをデザインするも採用されず、フランク・ロイド・ライトたちによる嘆願書で出所。出所後はそれ以前の具象表現から、ノグチというと思い浮かぶ抽象的モダニストな作品へと作風が変化した。

1950年には女優山口淑子と結婚し(56年離婚)、鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学んだ。1961年には帰米し、ロング・アイランドにアトリエを構えた。1985年にオープンした庭園美術館も彼自身がデザインしたもので、樹木に囲まれた庭園の彫刻が楽しい。屋内も一部、屋根がなくて、そこに植えられた白樺と自然光の変化と彫刻のダンスが素晴らしい。

庭園の片隅にはこの彫刻のそばにノグチの遺灰が埋葬されている

庭園の片隅にはこの彫刻のそばにノグチの遺灰が埋葬されている

美術館内。角に白樺がある場所は吹き抜け

美術館内。角に白樺がある場所は吹き抜け

新しい発見

伝記を読んだのが随分前のことなので忘れていたのかも知れないが、私にとって特に興味深かったのは、彼がデザインした広島平和記念公園の幻の慰霊碑のモデル。ノグチが1950年の日本滞在中にデザインしたこの慰霊碑はいったん、選ばれながら、原爆投下当事国の米国人であるということで、選考から外されたのだ。しかし、このプロジェクトにノグチの起用を推薦した建築家・丹下健三は、この慰霊碑のデザインの一部を丹下自身が設計した原爆慰霊碑に生かした(私の素人の目からすると、ノグチのデザインの方が優れているように思う)。また平和公園の東西両端の平和大橋・西平和大橋はノグチがデザインしたものだ。この経緯はNHKワールドのドキュメンタリーに詳しい。

慰霊碑トップ部分のモデル

慰霊碑トップ部分のモデル

なお、ノグチは1964年にはケネディー大統領墓をデザインしたが、日系であるとの理由で採用されなかった。優れたデザインでありながら、敵国の出身として日米両国で差別されながらも、自分に正直にビジョンを描いてきたノグチ。それぞれの作品は同じ種類の石で作られているが、色々な表情を見せてくれる。偉大な才能を改めて痛感した訪問となった。次は香川県高松市牟礼にあるノグチ庭園美術館を訪れてみたい。

Awaodoriという彫刻。阿波踊りもノグチが描くとこうなる

Awaodoriという彫刻。阿波踊りもノグチが描くとこうなる

陶芸家トシコ・タカエズ

1922年に、沖縄出身の両親のもとにハワイで生まれた。ハワイ大で陶芸、織物を学んだ後、有名なミシガン州のクランブルック・ アカデミー・オブ・アートに学んだ。同校はチャールズ・イームズなどを輩出している。

52年に訪日し、北大路魯山人、濱田庄司、金重陶陽などを訪れ、伝統的な陶芸技法を学ぶ。仏教にも影響された。58年からホノルルで教鞭をとった後、67年から92年までプリンストン大で教授をつとめ、2011年にホノルルで、88歳で死去。

彼女の作品は、陶芸と彫刻を組み合わせたクローズド・フォームが有名だ。そして陶器の中には陶器の欠片が入っていて、陶器を手にとって回してみると音がするのが楽しい。今回の特別展のタイトルは Toshiko Takaezu: Worlds Within。なんて素敵なタイトルなんだろう。そう、彼女の壺の中には宇宙が存在している。

本展に際してニューヨーク・タイムズ紙などで記事が記載されたが、彼女の元生徒などによると、ニュージャージーのアトリエにある菜園で栽培した野菜を収穫したり、料理を作るのも彼女にとってはすべてが芸術活動の一環。自然に耳を傾け、陶芸創作だけが芸術活動ではないという生活を送ったようだ。

自分の背より高い作品の前を歩くタカエズ(絵葉書)

自分の背より高い作品の前を歩くタカエズ(絵葉書)

彼女がSahu, Nommo, Emme Ya, Unas, Po Toloと名付けた、本人より背の高い作品が、今回の特別展では展示されている。抽象的なお習字のような彼女の筆捌きは、同世代のジョーン・ミッチェル、ヘレン・フランケンサーラー、リー・クラズナーなどと共通するものがある。

ノグチとも交流があり、彼にお皿などをプレゼントしたようだが、ノグチがタカエズに何か彫刻を贈呈したという話はないとのこと。

樹木の間に張った網で陶器を乾燥していたのが、それ自体が絵になるということでタカエズはこんな展示を始めた

樹木の間に張った網で陶器を乾燥していたのが、それ自体が絵になるということでタカエズはこんな展示を始めた

偶然のおまけ

さて、ノグチとタカエズの作品を観て回った後に、ツアーに加わってみた。ガイドは日本人を母に持つ男性で、最後にはタカエズの作品に触れさせてくれた。ツアーには20人以上参加していたのに、作品体験希望者はたったの6人。異なった形やサイズの3点に触れたが、中には複数の欠片が入っている作品もあって、それぞれ異なった音がした。

行きはイーストサイドから地下鉄とバスで美術館に行ったのだが、作品体験で一緒になった一人がフェリーでマンハッタンに帰るということなので、ご一緒させてもらった。待ち合わせたエントランスで、彼女の友人カップルに紹介された。3人全員が建築家。日本人男性のHという名前を聞いて、もしかしてかつてNYに住んでいた私の友人の知り合いではないかと思って尋ねたところ、どんぴしゃ。そして私がその週末、メトロポリタン・オペラでオペラを4本観たことを話したところ、ちょうどオペラ好きの米国人男性・日本人女性カップルを招いてペントハウスでパーティーをするからと招待してくださった。その晩、DCに戻ることになっていたので、残念ながら辞退したが、「もしかしてそのカップルってCさんとSさんでは?」と聞くと、まさにその通り!また、Hさんは、DC在住の友人から娘さんの高校卒業式の祝辞を送るように催促されているという。ちょうど、私はその卒業式に出席する予定だった。重なる偶然、奇遇に驚きながら、フェリーからルーズベルト島などを眺めてE. 34th St.に到着し、帰路についた。


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