心に残る風景
我が家が、東京に帰国してから早10年になる。丁度、娘の高校受験~大学受験~成人式~就職活動を経て、社会に送り出すという一番変化の多い、また充実した年月だったので、あっという間に過ぎ去った感がある。気が付くと、娘は思春期から大人の女性となり、主人と私はその分、白髪も増え、あちこちメンテナンスが必要な年齢となった。
バルセロナ駐在
主人と結婚した直後、スペイン・バルセロナに6年半駐在し、その間現地で娘が生まれた。その後、一旦帰国し5年ほど日本で過ごしたが、再度バルセロナに4年間駐在するという地球の裏側に行ったり来たりの生活だった。
バルセロナ駐在通算10年半の間には、チャンスを見つけてはあちこち旅行した。スペイン国内はもちろん、アフリカの西にあるスペイン領カナリー諸島や地中海のバレアレス諸島など、海好きな娘が喜ぶ所にも夏休みの度に訪れた。地続きの広い欧州を12日間かけて車で横断したり、寝台列車で旅したり、娘は生後半年から旅好きな両親に連れられ、訳も分からず同行させられた。
時には、車のトランクにオムツのみならず、娘の授乳のため5リットルびんの飲料水数本と、ミルク用のお湯をわかす電気ポットまで積んで、まさに「一家大移動」の状態で旅したこともあった。幸いにも娘は丈夫で、どんな土地の食べ物を与えても、おなかを壊すこともなく、熱を出すこともなく「親孝行」だった。
20年前の欧州は、現在のようなテロの脅威もなく、難民の問題もなく、平和でのんびりしていたからできたことだったのかもしれない。日本に帰国後は、それまでなかなか訪れるチャンスのなかったアジア諸国やオーストラリア、アメリカ、メキシコなど年に一度は家族旅行を楽しんできた。
そんな中で異文化や美しい風景や遺跡に魅了された場所はたくさんあったが、「心に残る風景」として心に浮かぶのは、私達家族の核の部分を築いたバルセロナでの何気ない日常の数々である。寝かしつけようと、ずっと泣き止まない娘を抱きながら、テラスから見た夕暮れのティビダボの山。「日本の友人達はどうしているだろう?」とホームシックになりながら、育児の疲れや、早く社会復帰したい焦りや、それにもまして愛しい娘への思いや、色々なものを渦のように抱えながら見た風景。25年たった今でもくっきりと覚えている。
また、思わず笑ってしまうほど二人とも同じ格好、同じ顔でお昼寝していた主人と娘。幼稚園にお迎えに行った私を見つけたとたん、「ママ~!」と飛ぶようにやってきた娘の笑顔。私に叱られて泣きじゃくり、「もうわかったのね。じゃあいいわ」と許されるまでまとわりついていた娘の不安そうな顔。それらを取り巻くその折々の家の中や、公園や、街の風景。そういう記憶は、写真やビデオには残らないが、私の心の記憶として未だにはっきりと焼き付いている。時には悲しいものやほろ苦いものもあるけれど、そういう心に残る「風景」に支えられ、今の自分があると思っている。
想い出旅行
3年前に家族3人でバルセロナを再訪した。町のあちこちに、道端に、公園の片隅に幼かった娘や若かった頃の私達夫婦の姿がだぶって見えて、何度も涙があふれてきた。懐かしいというだけの思いではなく、未熟だった故に時にはパニック状態になりながら育児と格闘していた自分を思い出し、今ならもう少し上手くできたかもしれないと恥ずかしくなるような、不器用だったが健気によくがんばったねとねぎらってあげたいような、あるいは、もう二度とあのような濃密な時間は戻ってこないのだと惜しむような様々な思いがこみ上げてきたのだ。かつて生活していた辺りを散策しながら涙が止まらず、「ママ、どうしたの?泣きながら歩かないでよ」と娘は困惑していた。
今後に思いを馳せて
昨年9月に長年、同居していた私の母を見送った。ずっと私達家族を見守り、孫娘を可愛がってくれた母は、「家族の風景」の中で年々少しずつ老いていった。母の老いる姿、臨終の姿を見ながら、私は自分の老後に思いを馳せることも多かった。そんな母も今は私達の心の中で静かに眠っている。
これから私達がどんな人生を送るのかわからないが、できることなら家族が健康で穏やかな日常を積み重ねていきたいと思っている。そしていつか娘の伴侶や子供達が加わり、賑やかな「心に残る風景」となることを願っている。
東京都出身。成蹊大学英米文学科卒業。IBMアジア・パシフィック・グループにて米国人役員秘書として勤務後、夫のスペイン・バルセロナ駐在に同行し、1991年から通算11年在住。現地では、欧米・アジア・中南米など20数カ国の女性達からなるBarcelona Womens’ Nertworkに在籍し、文化交流と慈善活動に参加。会員に草月流生け花を教えるかたわら、在バルセロナ米総領事館のフラワーアレンジ担当。現在は東京に戻り、自宅でフラワーアレンジとシャドーボックス教室Studio Feliz主宰。