陳天璽ほか編『パスポート学』 北海道大学出版会

陳天璽ほか編『パスポート学』 北海道大学出版会

陳天璽ほか編『パスポート学』 北海道大学出版会

本邦初の『パスポート学』

本書はパスポートにまつわるさまざまな問題を多角的に検証した本邦初の書籍である。『パスポート学』という聞きなれない言葉に戸惑われている方もいるかもしれない。日本のパスポートを意識したかどうかは分からないが、濃い赤色の表紙がとても印象的な本書では、「パスポートはなぜ必要か?」という当たり前にきこえる問いを立てている。この問いに対して、多くの人は躊躇なく海外旅行をするためだと答えるに違いない。それ以外に何の目的があるのかと怪訝な顔をする人もいるだろう。ノービザで訪問できる国が多い「強い」パスポートを有する日本国民にとっては、お金とパスポートさえあれば世界中どこへでも行けるという考えはごく一般的である。多くの旅行者にとって、パスポートは、手にした瞬間に煩雑な日常から解放され、これから始まる旅への期待に胸踊る、まさに魔法の手帳とでもいえるのではないだろうか。また、仕事で外国を頻繁に訪問している人にとっては、日常業務に不可欠な身分証明書を兼ねた書類という位置付けにあるのかもしれない。

しかし、世の中にはパスポートを取得したくてもできない人、さまざまな事情により「不法」な手段でしかパスポートを取得できない人、意図的に取得しない人、また、複数のパスポートを保持しながら揺れ動く自分のアイデンティティと向き合う人などがいて、パスポートをめぐる諸相はそう単純ではない。パスポートは19世紀にヨーロッパで整備され、今では私たちにとって身近な存在となった。グローバル化する現代社会において、パスポートは国家と個人との関係を考える上で切っても切り離せない、奥深いものであることを本書は教えてくれる。

本書の構成

本書は以下のとおり2部構成で、6つの章、2つのコラム、編者による座談会という構成になっている。

第1部 パスポートを視る
  • 第1章 世界のパスポート
  • 第2章 日本のパスポート
  • 第3章 移動と身分証明書
  • コラム 日本国「再入国許可書」と私
第2部 パスポートを考える
  • 第4章 パスポートの概念・理論
  • コラム パスポートの表象
  • 第5章 パスポートをめぐる政治
  • 第6章 人とパスポートの関係
  • コラム あなたはだれ?——パスポートが覆う、そのむこうの景色
座談会 パスポート学の射程

執筆者は、人類学や歴史学など、異なる専門分野をもつ研究者および実務家、そして、パスポートと向き合わざるを得ない環境に置かれている当事者から構成されている。専門書でありながらも読みやすく、まるで、多種多様な顔を併せもつパスポートのように、読者にさまざまな観点から刺激を与えてくれる。

越境とパスポート

欧米と比べ、日本は移民の受け入れに消極的なこともあり、国境管理のあり方への一般の関心は低い。また、日本は1980年に難民条約を批准し、81年に発効しているにもかかわらず、難民受け入れに消極的なのは周知の通りである。しかし、世代を超えて日本で暮らしている近隣アジア諸国の人びと、明治期以降、外国に渡った日系移民の子孫、内戦や自国政府による弾圧などから逃れ日本にたどり着いた人びと、留学後にそのまま日本の企業に就職した元留学生等、外国とつながりをもちながら、日本社会を構成している人の数は年々増加している。

とはいえ、マジョリティである日本国民が、これらの人びとが抱えるさまざまな問題を理解しているとは言い難いのも事実である。そのため、悪意はなくとも、配慮に欠けた行動をとることも少なくない。本書では、パスポートを通じて、そのような人びとの置かれた立場を法制度面から取り上げたり、国籍とアイデンティティの相克や当事者の思いなどが描かれており、現代社会の多様性を垣間見ることができる。

各章の内容はもちろんだが、この世に生を受けた瞬間に属する国家をもたなかった経験を持つ二人の無国籍者のコラムはとくに読み応えがある。当然のことだが、無国籍者にパスポートを発行してくれる国家はない。詳細は本書を読んでいただくとして、多くの人にとって、パスポートは単なる紙の束であるが、ある人にとっては、己を見つめ直す機会を与えたり、ときには人生を絶望させる要因となるなど、人生を左右しうるものであることを本書は教えてくれる。パスポートを取り巻く悲喜交々は、国民国家体制や地域統合のあり方が揺らいでいる現代社会を象徴する最たる事例といっても過言ではない。本書は、結論を提示するのではなく、読み手に自由に受け止めてほしいというアプローチをとっている。皆さんにも、本書を通して現代社会のダイナミズムを感じていただきたい。


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