遥かカナダの空の下のホーム・スイート・ホーム
カナダ・オンタリオ州オタワ郊外にある我が家は、築40年になろうとしている。最初のオーナーが建て、次のオーナーは屋根とキッチンを改装して数年で転売。私たち夫婦が3番目のオーナーで、越してきてかれこれ16年。築20年で買ったから、そろそろ初代オーナーに迫る居住年数になってきた。
「ガレージが大きい家を探せ!」
私たち夫婦は、2007年、サウジアラビアの首都リヤドから、カナダの首都オタワへ引っ越した。カナダ人外交官である夫が赴任していたサウジアラビアから帰国を命じられたからだ。
オタワの夏の気温は、リヤドの冬の気温に等しい。真冬のオタワは尋常でない寒さで、最初の年など、今でも記録に残る豪雪&低温(−35c)の年だった。スノーブロワー(除雪用トラクター)も持たず、雪退けは全て、雪用のシャベルを使った人力。玄関前のドライブウエーが約40mあり、仕事帰りの夫がドアまで辿り着けるようにと、日に3度も雪掻きをしたこともあった。
それはさておき、夫はずっと北半球ばかりの任地を横滑り異動し、結婚後も私たちはカナダに住んだことがなかった。転勤先からまた別の国への引っ越しゆえ、荷物はどんどん増えていく。同僚たちのように、カナダに家があり、時折荷物をその家へ運んで減らす…ということもできなかった。
荷物はともかく、早急にカナダで住む家を探さなくてはいけない。当時、サウジのネット環境はダイヤルアップ。私は早朝から夜寝るまで、家事そっちのけで、トロトロスピードのインターネットを使い、家を探した。夫の新しい勤務先への通勤距離を測りつつ、「車3台分の車庫がある家」を。彼はオタワの友人に、スポーツカー2台を預けていて、その上リヤドで普段使いのSUVを買ってしまった。更に、古い車を修理する作業スペースが要るという。そりゃ、大型ガレージが必要なわけだ。夫婦2人きりで住むのだから、大きな家は必要ないけど、ガレージの大きな家は、当然ながら居住部分も広い。
最初は家探しを楽しんでいた私も、二週間を過ぎた頃には、いい加減うんざりしてきた。コンピュータに向かい、ピーピーと接続音が鳴ると、気持ち悪くなってしまう。なぜかオタワの不動産エージェント会社は、私たちの問い合わせに一社も返事さえくれなかった。
ひと月ほど続いた私の家探しだったが、思うような家は見つからず、しばらくはモーテル住まいで、猫はペットホテルに預けよう!そう決めた日に、よさそうな物件がひょっこり上がってきた。ひと目見て、これだ!という、夫の希望通りの家。売り主とメールでやり取りした後、数週間後に見にいく約束を取り付けた。私たちの事情を汲んでくれて、なんとか私たちはリヤド離任前に住処を得ることができた。
「いつになったら訪ねて行ける国に赴任すんの?」
私には、前の結婚で産んだ子どもがいる。赴任で東京にいた頃、割と近所に住んでいたから、夫には内緒で時々自宅でお茶したり、ご飯を食べたりしていた。
それが、長男はカナダへ、長女はアメリカへと、それぞれ留学。私はエジプト、そしてサウジアラビアと、どんどんお互いに遠くなり、長男から発せられたのが見出しの一文、「いつになったら訪ねて行ける国に赴任すんの?」。彼的には、ワシントンやロンドンなど、訪ね易い英語圏へ異動して欲しかったのだろう。宮仕えの悲しさ、赴任地はいつも、希望通りにはいかない。
やっと、彼が留学していたトロントから、サッと訪ねて来られるオタワへ帰任というのに、肝心の彼の方が、学業を終えて日本へ戻ってしまった。
幸い娘はアメリカ東海岸にいて、引っ越した年のアメリカン・サンクスギビングに、我が家の「初ゲスト」として訪ねて来てくれた。しかし、それが夫の母の逆鱗に触れたようで、同年義母によるクリスマス乗っ取り事件に発展 — 義母が勝手に一族を招待、総勢20名ほどが、クリスマス前後に我が家に宿泊。食事担当は私一人だった。その後、娘が我が家を訪れることはない。
「人生で一番良かったと思うのはいつ?」
パンデミックになり、2021年以降、日本の妹とビデオ通話で話すことが多くなった。これまで知らなかった、お互いの成長期の気持ちや日常生活、最初の結婚のこと、今の暮らしのことなど、かつてないほどの会話量。本当に姉妹?同じ家に住んでいた?と思うくらい、知らないことだらけだった。私は18歳で結婚して家を出てしまったから、それも仕方のないことか。パンデミックのおかげで、お互いの人生をキャッチアップすることができた。
ある時ふと、彼女から「人生で一番良かったと思うのはいつ?」という問いを投げかけられ、「名古屋で子どもたちと3人、母子家庭みたいに暮らしていた時」という返答が、思わず口をついて出た。
日本で暮らす外国人の夫(当時)が、在留資格の心配なく生活できるようにと籍を入れて始まった最初の結婚生活。可愛い子どもたちに恵まれ、私たちは幸せそうに見えたに違いない。
が、香港チャイニーズの義父母からは「あんたは日本人」と差別を受け、夫は新しい人の存在を匂わせ、「どうして私ではダメなんだろう?」という思いが堂々巡りし、「それならいっそ、私たちは母子3人のユニットだと設定しよう!」と思っていた頃。あの時が私の人生で、一番平穏で幸せだった気がする。
結果的に私一人が弾かれて、子どもたちは夫の両親が育てることになった。
両親亡き後は父子家庭となり、子どもたちは彼が立派に育て上げてくれた。孫もでき、これからゆっくり老後を楽しもうと思っていただろうに、2023年早春、元夫は泉下の客となってしまった。30年以上も前に別れたとはいえ、私には大切な人。彼の人生が、愛に溢れて幸せなものだったと信じたい。
そして、終の住処探し
2015年、夫が退職した。通常の定年退職年齢より、8年も早い。日本の大学へ留学していた時に買った日産のスポーツカー、フェアレディZを復元したいから、というのがその理由。勤務先のファイナンシャルプランナーが算出した、年金先取り計画が魅力的だったこともある。が、外務省への入省が遅かった、外地経験が長すぎるなど、今以上の出世は見込めないからというのが真相のようだ。オタワ帰任はやっぱり「キャピタル・パニッシュメント(死刑と首都をかけたジョーク)」らしい。あと2カ国くらいは赴任できると思っていたのに、あぁ残念。
あれから8年。フェアレディZは今も、ガレージの車用ロティサリーに刺さったままだ。体力も気力も衰えていく一方だというのに、夫は溶接など全ての作業を自分でやると言い張る。夫婦して、階段の上り下りもスムーズにできないほど老体になってきたのに。
思えばこの家には、前述の義母のクリスマス乗っ取り、相次ぐ猫の失踪や交通事故に心臓発作、記憶障害が始まった義母の居候、そして私の病気と、暗い思い出の方が多い。それでも、パンデミック中は田舎暮らしゆえ、訪ねて来る人もなく、無事に生き延びることができたと思う。夫婦2人には大きすぎる家が幸いし、息が詰まることもなく、平穏にステイ@ホームできたことには、感謝しかない。
故郷日本から、遥か遠いオタワ。近所に親しい友人もなく、子なし夫婦のゆく末は、一体どうなるのだろう。病気で手足の指が変形し始めた私にはもう、庭仕事も家事も無理。缶詰や瓶詰めの蓋さえも、自分では開けられない。せめて近くに家族がいたら、この家に住み続けることができるかもしれないけれど、そろそろ真剣に老人ホームを探す時が来たのかもしれない。僻地の一戸建て住宅は、限りなく不便で、そして寂しい。
名古屋生まれ。中卒&バツイチでカナダ人外交官と結婚、タイ、英領香港、日本、エジプト、サウジアラビア、アルジェリアに赴任した。転勤しながら、高卒資格、学士、修士を修得。2007年にカナダへ移住し、現在も田舎暮らし。パンデミックになり、関節リウマチと強皮症を発症するも、食事で自分を治そうと、2022年秋、発酵食品ソムリエになった。趣味は Kindle出版。著書『私をなおすリウマチごはん』『サウジアラビア遊閉生活』『エジプトつれづれならぬまま』他。