「終活」ーどう老い死ぬかという選択=どう生きるかという選択
「終活」とは人生最後を意識した事前準備である。介護や医療の意思表示、葬儀やお墓、遺産相続とその処理に関する指示、その他身の回りの物品の生前整理(断捨離)など幅広い内容が含まれ、大切な情報は「エンディングノート」といったものにまとめるらしい。こうした「終活」をしておけば、確かに自分の人生を見つめ直し、残りの人生をどう生きるか再確認し、家族への苦労や負担を軽減することができよう。
しかしながら、未熟な私が恐縮ながら指摘したいのは、体力的・知的能力が日々衰える老いとその後の必然的な死をきちんと受け止めない「終活」は、家族やケアギバーとなる親族への負担を軽減せず、本人の自己満足だけに終わりやすいということである。言い換えるなら、本来の「終活」とは、断捨離や遺産・介護・医療についての指示といった事務的活動でなく、人が人として決して避けることのできない最後、即ちじわりじわりと進む「老い」とその終着点の「死」という過程を真正面から受け入れ、その準備をするという精神的活動なのだと思う。これは私自身が、実父(現91歳)、義理母(94歳にて2022年死去)、義理叔父(82歳にて2020年死去)らが老いる過程を傍でみて、また実際介護に関わった経験から実感している。
義理母のケース
私の身近にあった「終活」で義理母の例をとれば、彼女は一人で自立した生活をできなくなってもその事実を受け入れられなかった人といえる。従って、遺言書や一般的委任状(Power of Attorney)といったものは準備していたが、”I want to live forever!”と言っていただけあり、「死」を受け入れる精神的な準備ができていなかったのだと思う。長年住んでいたアパートには、現役として働いていた90年代以来の洋服も含め、物があふれかえっている状態で、財産管理についても、息子2人が必要時に代理人としていつでも介入して管理できるような状況にはなかった。自宅で何回も転び入院し、やっと自宅でのケア付きという条件で退院しても、そのケアギバーを退院翌日にクビにしてしまった。最終的に、息子2人がケアギバーの「雇い主」となって24時間7日体制での在宅ケアを整え、義理母もどうにもならないと諦めた。徐々に自然の流れで認知能力が衰えていくにつれ、素晴らしいケアギバーの2人を自らの友人として受け入れ、最後は心穏やかに亡くなった。
が、ここに行きつくまでに、息子2人は財産管理や医療指示について書類を整備しなおし、義理母を説得し、出張公証人をアパートに呼んで必要書類に署名してもらい、ケアマネージャーを雇い、と、かなり時間を費やすことになった。また、日常介護を担当するケアギバーとの関係がうまくいくよう、最初の頃は夫(息子の一人)が毎日1時間から2時間ほど電話で母親の愚痴を聞いたり諭したりと手間もかかった。
義理叔父のケース
義理叔父は、歩くのが不自由になって車いす生活であったが、義理叔母とペンシルバニア州のいわゆる「(55歳以上が入居する)+55コミュニティー」に住んでいた。義理叔母も膝の手術をしたりといろいろ体力的に不安もあり、二人ともいつかAssisted Livingのような環境に移らなければならないと感じていたようだが、その決定を明日に明日にと引き伸ばしていたようだ。突然叔母が亡くなり、叔父も倒れて緊急入院。そのまま自宅に戻ることなく、我が家(夫)が面倒をみることになり、メリーランド州のナーシングホームに叔父を移した。叔父は、「全て用意してあり、問題ないから」などと言っていたが、用意していた遺言書その他委任状などエステート関連の書類一式は数年前に作成されたもので、委任状には不備があり、ペンシルバニア州の銀行で受け入れられなかった。改めて作成し直して、夫が銀行に何回か足を運んで、やっと口座にアクセス出来るようになった。叔父はメリーランド州の施設に移った後、数年で亡くなったのだが、自分の意思や希望というよりは、夫がケアできる環境整備を優先せざるを得ず、不本意なことも多かったのではなかろうか。そういう意味では気の毒だったと思う。
残されたぺンシルバニア州の自宅(一軒家)の処理は、腰の手術後ほぼ動けなかった夫に代わり、コロナ禍で家に戻っていた次男と私の二人で対応した。コストコの大ファンだった叔父叔母の家である。冷蔵庫だけで3つ(かなりの飲み物類が保存されていた)、ガレージの棚一杯の缶詰とソーダ類の箱、ガーデニング用品、山と積まれたペーパータオルのパッケージ、何段にも重ねられたシーツやタオル類から、何セットもの食器、ウォークインクローゼットと洋服ダンス3竿一杯の衣類と靴、そして収集していたアメリカ・フォークアートの品々と、とにかく物、物、物。キッチンを片付けるだけで丸4日かかった。何とか無事に売却するまで、次男と私はほぼ2か月半の間、毎週末往復7時間ほどかけてペンシルバニア州に通ったのである。本人の希望に従い火葬にしたが、埋葬地の用意などはなく、「どこでもいいから散骨してくれ」と言われていた。本人は簡素にというつもりだったのであろう。が、法的規制もあり「どこでも」撒けるわけではないのである。海に散骨するにしても沖まで船で出なくてはならず、どこで出来るか調べるところから、全て残された家族に任された。
実父のケース
実家の父は、唯一の家族となった私がアメリカに在住していることもあり、かなり早い段階で断捨離し、そして日本のいわゆる介護付き老人ホームといわれる施設に移った。父は50代後半で妻(私の母)をなくしたこともあり、万一の時に備え私が30代初めの時から、銀行口座、登録印鑑、年金番号、生命保険などの情報、そして貸金庫に保管してある重要書類等のリストを私に渡していた人である。早め早めに私が提案した生活環境の変化にも常に同意してくれた。恐らく現実的でプラクティカルな人なのだと思う。本音はいつまでも自宅にいて家族に介護してもらいたかったであろうし、90歳過ぎた父の内面的葛藤は計り知れないが、とにかく一人娘に迷惑をかけたくない、一方自分もいつまでも独立して生活できないという事実を客観的に見据えて判断してきた人である。私が促し誘導した部分は多かったかと思うが、「終活」もできる範囲で段階的に行ってきたと言えよう。
「終活」とは自らの生と死についての選択
病気で死を宣告される場合、否が応でも自らの「終活」を考えざるを得ない。しかし、少しずつ忍び寄る「老い」は日々の日常では実感することもなく、特にまだ元気なうちは、誰しも「すぐ明日何かあるかもしれない」とはなかなか考えない。日々衰えていく肉体や精神的能力を感じる頃には、「老い」そしてその結果としての「死」が身近となりすぎて、考えたくなくなるのであろう。結果、「終活」は明日に引き伸ばされがちとなる。
私個人としては、「終活」は主に残された家族のためのものであり、「終活」しないのは一種の我儘だと思う。が同時に、「終活」は、老いの過程でどう生きどう死ぬかを自ら選択する機会ともいえ、帰するところ自分のためともいえる。もし「終活」するなら、真正面から「老い」と「死」を見据えて、詳細に(残されたケアギバーの家族の目線で)かつ徹底的に(死後だけでなく認知症や寝たきりといったあらゆるケースにも対応)すべきだ。中途半端な「終活」では、あまり家族の役には立たないし、予定が狂って自ら意図しない晩年となる可能性が高い。恐らく少し早めに用意する方が良い。これまで見てきた老いの過程では、「終活」するにもそれなりのエネルギーがいる。あまり年を取ってからだと、体も動かず、また何を捨てるかといった簡単な意思決定ですら、なかなかスムーズに出来なくなるからである。更に可能な限り、残される家族と一緒に話し合いながら「終活」すべきであろう。
とここまで書いてきたが、まあ人生それぞれ、家族関係もそれぞれである。自分はきちんと「終活」しておきたいと思っているが、一方、我儘一杯の人生(例えば義理母のような)もある意味お見事で、これまた愛されるべきものと思っている。実際、義理母には振り回されることも多かったが、私との関係は非常に良く、私も彼女を愛していたし、彼女も人から沢山愛された。またきちんと「終活」していても、人生突拍子もないことが起こり、自分のコントロール外で考えていた最後とは全く違う形となってしまうこともある。詰まるところ、「終活」とは、(1)あくまでも出来る限りの範囲で、(2)自分の人生の終わり方を決め選択することであり、その結果については何も保障はない。言ってみれば人生そのものである。
どう死ぬかということはどう生きるかということ。どういう人生が良いか悪いかなど一概に言えないように、「終活」するか否か、また「終活」やその結果としての人生最後の形に点数はつけられない。「終活」は、自分の人生また死についての突極の自己決定である。むしろ、人生は必ずしも思い通りにならないからこそ、真摯にそして謙虚に自分の人生またその最後に向き合い、よく考えて「終活」したい。
カリフォルニア州・ワシントンDC弁護士。国際基督教大学語学科卒、ニューヨーク州立大学アルバニー校大学院コミュニ ケーション学修士課程、ジョージタウン大学ローセンター法務博士(Juris Doctor)課程修了。メリーランド州チェビーチェイス在住。趣味はバレエ、音楽鑑賞、観劇。