ロヒンギャとして生まれて
私は、ミャンマー生まれのロヒンギャ民族です。ロヒンギャについて、それから私がミャンマーで実際に受けた差別、迫害。また日本国籍に帰化した理由、日本国籍になって得したこと。そして今ミャンマーで起きているロヒンギャへの迫害、殺人、バングラデシュへの逃亡、避難生活についてご紹介したいと思います。
ロヒンギャ弾圧の始まり
私はミャンマーの西海岸沿いにあるアラカン州で生まれ、3歳くらいまでそこで暮らしていました。私の父はアラカン州の公立学校で高校教師を務めていました。ところが、1988年に全国的な民主化運動が起き、それを政府が弾圧しました。暴動でたくさんのロヒンギャの人が拘束されたり、殺害されたりしました。その後、私たちが暮らす村に何度も軍人が来て、ロヒンギャだからと父を探していました。
同じ学校の先生の中でも、ロヒンギャの先生方はほとんど拘束されたと聞き、父はずっと家にも帰れず、知人や親戚の家を転々としながら身を隠していました。しかし、国内に身を隠すのは限界があると思い、海外への逃亡を決断しました。妻と幼い子供達、家族全てをミャンマーと言う不安な国に置き逃亡するのも不安だったと思います。その後、母もここに残ったら自分と子供達に何が起きるか分からないと考え、自分の財産を全て売り叩いて、アラカン州からミャンマーの当時の首都ヤンゴンに移住しました。
ヤンゴンに引っ越し
私は小学校6年生までヤンゴンで暮らしていました。ミャンマーの学校は仏教徒の教えが多く、イスラム教徒のロヒンギャの生徒でも一方的に仏教徒の教えを無理に強いられます。学校は教育の場なのに、毎朝のように、仏へのお供えや募金を強要されます。イスラム教徒の生徒がそれを拒否すると、正しい道を教えるはずの先生が私達イスラム教徒に対して「カラーはこれだから」という言葉で片づけられました。「カラー」と言うのはミャンマー語で、インド系の外人と言う意味で、けなすときに使います。先生が「カラー、カラー」と言うせいで、クラスの同級生も私たちをカラーと呼ぶようになり、一部の生徒の保護者が「カラーと友達になってはいけません」と言っているのを私は自分の耳で聞きました。ずっと「カラー、カラー」と後ろ指をさされました。私は、これが一生続くと思っていました。
私の父、祖父は先祖代々、国民カードを持っていました。私がミャンマーに暮らしていた時は、12歳で国民カードを学校から申請するのが一般的でした。私も他の生徒と同じように申請しに行きました。他の学生は、受付してもらえましたが、私は「ロヒンギャだから、カラーだから」と受け付けてもらえませんでした。先祖代々、国民だったのに、私が外国人扱いされるのはおかしいと思いませんか?
日本への移住
ずっと心細かったです。国民カードさえ貰えない国での将来が不安になり、これがきっかけで日本への移住を決意しました。しかし、日本に来たからと言ってすぐに問題が解決した訳ではないです。全く言葉もわからない異国で、環境が全く違うので、小・中学校で言葉、読み書きを覚え、勉強するのに必死でした。周りには言葉が分からないからと、私をからかうグループもいました。からかわれた理由の中には、食事もあります。
私はイスラム教徒なので、学校の給食は食べられず、毎日お弁当を持って行きました。私のお弁当は毎日、ミャンマー風カレーとご飯だけ。それをみて何人かの同級生は、「こいつは毎日、カレーばかり食べているから、こんな肌の色なんだ」と私をいじめました。そのせいで、中学であまりいい思い出はありません。でも負けずに、努力しました。16歳の時、私は親の決めた人と突然結婚させられました。高校2年生でした。日本の生活に慣れてた私には当初は衝撃でした。一度も会った事の無い人と突然の結婚。ロヒンギャでは、10年前までは親が決めた結婚が当たり前でしたが、最近は恋愛結婚が増えました。私の様に若いうちに結婚する人は今はほとんどいません。高校、専門学校ととても楽しい日々を過ごしました。でもまだ壁がありました。
日本国籍取得
日本に帰化する一番の理由は、自分の居場所が欲しかったからです。専門学校の頃、留学をしたかったのですが、自分だけビザを貰えず、留学できませんでした。私は、建築について学んでました。そこで、同級生は皆ヨーロッパへ留学に行き、私は6ヶ月間先生と一対一で日本に残りました。日本国籍を取得して良かった事は3つあります。
- 自分の国と言う帰る場所があること。
- 選挙で投票出来ること。
- 多くの国へ行くのに、ビザ申請しなくて済むことです。
ロヒンギャ迫害の歴史
私は日本が大好きです。でもロヒンギャ民族の一員です。
ミャンマーは民主化する前から1962年まで、ロヒンギャ民族に他の民族と変わらない人権を与えてきました。1962年ネ・ウィンの軍事政権になり、ロヒンギャ族への迫害が始まりました。1978年に始まったナーガミン作戦で、迫害は悪化する一方で、ロヒンギャ民族のうち30万人がそれに耐えられず 、自分達の母国を離れ、バングラデシュへ逃亡しました。
その後、当時のバングラデシュ首相ジアウル・ラハマンとミャンマー大統領 ネ・ウィンが同意した上で、ロヒンギャ達をロヒンギャと言う名前で元の居場所に呼び戻しました。
1992-1993年にネ・ウィン の部下キン・ニュンが全国民の国民カードを新しくするため現国民カードを回収すると発表し、従来の国民カードが回収されました。他の国民達にはピンクの国民カードが発行されましたが、ロヒンギャ民族には白の仮住民カードが発行されました。その後、ロヒンギャ民族は移転、日常生活、経済、教育、結婚、出産、宗教などのすべての人権面で、ミャンマー政府によって制限されました。
2012年半ば、民主政権テイン・セイン政権になり、ミャンマー軍とマバタ(ミャンマー愛国教会、仏教擁護が使命)が一体になり、ロヒンギャ民族の家などを放火したせいでシタウエ、ヤテタウン、ミャポン、チャウトーなどから14万人のロヒンギャが住む家を失い、今も国内難民キャンプで生活しています。彼らは海外支援だけで生活しています。家も人権も失い、彼らの生活はとても不安です。2016年11月9日マウンドーやヤテタウンなどで、警察署3ヶ所がロヒンギャ民族に攻撃されたといわれ、ロヒンギャ民族への一方的迫害、無差別殺人、住居放火、女性への集団レイプがいまだに続いています。
医療の場での迫害
ロヒンギャ迫害は医療の現場でも起きていました。
私の叔母(父の一番下の妹)は2016年に難産を余儀なくされました。その時アラカンにある総合病院が、出産を受け付けてくれました。入院後、間も無くある注射をされ、そのまま待つよう指示されました。注射を受けてから間も無く激しい痛みを訴えても、医者は「まだまだ大丈夫。この痛みは一晩くらい続くから」と言いました。これは午前10時のこと。心配になった息子がすぐに母親をレンタカーに乗せ、国境のナイル川でブローカーに3倍の報酬を支払い、バングラデシュの難民総合病院に救急入院させました。そこの医者は「後1時間遅れていれば、母子ともに命はなかった」と言っていました。もうすでにアラカンの総合病院での注射から6時間後のことでした。
私は現在、ニュースや裁判などの通訳をしています。ごく最近の通訳で、忘れられないニュースがあります。ある家族の母親はその場で命を絶ち、父親と9歳の子供は銃撃され近くのアラカンにある病院ではなく、異国で遠いバングラデシュの難民総合病院を目指しました。傷口が少し腐敗し始めていたので、医者が「どうして早く手当を受けなかった?」と聞くと、彼は涙ながら答えました。「傷口が腐っても私に命がある。アラカンの病院で手当を受けた友人達はもう命はないから。」
彼だけではなく、現場の人たちの報告で何人もの人が口を揃えて言います。今アラカンにある病院では、ロヒンギャと言うだけで受け付けをし、素早くある注射をされるそうです。注射をされた後、間も無く心臓発作のような症状を見せ息をひきとるそうです。政府がどうであれ、軍人がどうであれ。命を扱う場所の医療現場でこんな事は絶対あってはいけません。
私が体験した医療現場
私は日本に来てから、一度だけ家族でミャンマーに遊びに行きました。向こうの衛生環境はとても悪く、2歳の娘が下痢と嘔吐が止まらなくなり、水分を取っても吐いてしまうので、幼児セントラル病院に緊急入院しました。でも医者が診察に来ることはありませんでした。また看護師らしい女性に、入院するのであれば先に入院費を全額支払うように言われたので、支払いました。支払いを完了すると病室へ案内されました。
それからは看護師らしい女性が来るだけで、私が「点滴をしてください。」とお願いすると、「2日分の入院費を支払えば、お医者さんが来る」と言われました。私はどうすることも出来なく、時刻は23時過ぎだったので朝にならないと入金も出来ないらしく、朝まで待つことにしました。夜中にも娘は水分を取るたび嘔吐が続きました。嘔吐をしたベッドで娘を寝かせたくないので、嘔吐するたび看護師を呼びました。ベッドを交換するたびに追加料金を払いました。その時、以前Facebookで読んだある記事を思い出しました。
その記事の内容は、病気の子供を医者に診察してもらえず、度重なる請求だけで、結局医者からの診察はなく子供が亡くなったという内容でした。朝9:20に看護師が病室に来て、「入金しますか?」と聞かれたので、私は今すぐ退院すると伝えました。
退院後、私は日本のお医者さんに予備に頂いた整腸剤と、日本から持って行ったポカリスエットの粉で一週間頑張りました。すぐにでも帰りたいけど、娘が飛行機に乗れる状況では無かったので。娘が元気になると、今度は4歳の息子がデング熱にかかり、私はその時決意しました。この国がもうちょっと発展しなければ、私は子供と一緒にこの国には来ないと。
日本のロヒンギャ難民
今、日本にはロヒンギャ民族は約250人います。3組の家族が日本国籍を取得し、40組の家族が永住、定住、特別在留許可などの在留許可を得ています。ですが、15組の家族がいまだに在留許可をもらっておらず、仮放免と言う形で暮らしています。彼らは健康保険証もなく、就労許可もなく、入管の許可無しでは一県から他県への移動もできません。治療費全額が自己負担になるので、収入のない彼らには大変な負担になります。彼らは、他の同胞の支援で生活しています。
日本政府の対応
最近、ミャンマー政府はNVCカードをロヒンギャ民族のために発行するようになりました。NVCカードと言うのは、外国人がミャンマー国籍を取得したい場合に発行されるものです。先月、日本の外務大臣がバングラデシュの難民キャンプを訪問しその後、彼はロヒンギャ民族の問題についてミャンマー政府に圧力かけられるよう努力して行くとおっしゃっていました。先月、安倍総理大臣がフィリピンでアウン・サン・スー・チー氏に会った時、ミャンマー社会向上のために募金をすると約束しました。
世界のどこかで、こんなに迫害を受けている民族がいることを知って欲しいのです。この問題は1日では解決出来ません。一人でも解決出来ません。でもみんなで一緒に考えることでこの迫害の解決方法を見つけられると思います。
ミャンマー・アラカン州にロヒンギャ民族として生まれる。ミャンマー名はティダ・ルイン。弾圧を受けたため、2001年に日本に移住し、2013年に日本国籍取得。16歳で結婚し、一男二女の母。現在は通訳、翻訳家として活動。