ウクライナ難民とフランス

プーチン大統領のロシアがウクライナ侵攻を開始してから、状況の改善のないまま4ヶ月が過ぎた。今の時点では 、戦争は長引くだろうと言われている。毎日200−300人の死者が出ていることを思うとやりきれない。

キーウ市内の観光名所ミハイル黄金ドーム修道院のすぐ近くに設置された戦死者の名前と顔写真の貼られた追悼の壁

キーウ市内の観光名所ミハイル黄金ドーム修道院のすぐ近くに設置された戦死者の名前と顔写真の貼られた追悼の壁

私は2019年の11月にキーウを訪れた 。世界中がコロナ禍に見舞われる2ヶ月前のことだ。 ウクライナ側に8000人の犠牲者をだした2014年のクリミア紛争の記憶はまだ新しかった。市内の観光名所ミハイル黄金ドーム修道院のすぐ近くに設置された戦死者の名前と顔写真の貼られた追悼の壁は生々しく(写真)、 たったの5日間だったが、毎日案内してくれた若いウクライナの友人女性が、一生懸命にキーウの町の素晴らしさを私に分からせようとするその一途な姿 に心を打たれた 。ロシアの威嚇は、もう過去のことと思っても、どこか影のようにウクライナの空の下に漂っていた。

その友人は4月からスイスに両親と避難している。初めはパリに移動する予定だったのが、 研究者である彼女の両親にスイスの大学から経済的により好ましい条件の短期ポストのオファーがあったので、今はその大学のある町に両親と一緒に居る。 大学院を終えて、最近ウクライナの人々の生活と密接した管理職に就いたばかりの彼女だったが、今はスイスでひたすら一日も早く愛するキーウに戻れる日が来るのを待っている。

キーウ市内にあるミハイル・ブルガーコフ(1891−1940)の銅像。ウクライナ生まれの作家で医師。20世紀ロシア語文学の代表的作家のひとり。キーウを深く愛していたことで知られる。作品のいくつかは長らくソ連の体制批判とみなされ発禁処分を受けていた

キーウ市内にあるミハイル・ブルガーコフ(1891−1940)の銅像。ウクライナ生まれの作家で医師。20世紀ロシア語文学の代表的作家のひとり。キーウを深く愛していたことで知られる。作品のいくつかは長らくソ連の体制批判とみなされ発禁処分を受けていた

聖アンドリュ教会。キーウの正教会で文化遺産のひとつ

聖アンドリュ教会。キーウの正教会で文化遺産のひとつ

比較的スムーズなウクライナ難民の受け入れ

フランスに来たウクライナ難民(フランスでは日本のように避難民と難民の区別はないのでここでは難民と呼ぶことにする)の数は、2月24日から7月初めまでの期間で約10万人。元来フランスとウクライナの関係はそれほど親密ではなかったし、従って既にフランスに住んでいるウクライナ人の数も多くないので、 一般のウクライナ人がすぐに向かおうとする避難先ではなかった。それでも10万人という数字は予想を上回った。

急遽、難民特別対策本部が設置され、ウクライナ難民は 鉄道の利用も特別に無料になるという恩恵も授かった。そのため、アフリカ、アジア、中東からの難民たちの受け入れとの格差がありすぎるという指摘もでた。そうした批判に対し、「ウクライナは文化的にも地理的にもフランスに近い国」、「 ウクライナはヨーロッパの国」といったウクライナ難民を支持することばが飛び交う。

ウクライナ難民がすんなりと受け入れられているのには文化的背景が大いに関係しているだろう。フランス共和国の価値観の一つに世俗主義(ライシテ)があることと無関係ではないかもしれない。1905年の政教分離法を元に、いかなる宗教も優遇せず、公共の場に持ち込ませない代わりに、信仰の自由などの権利を平等に保障するという世俗主義だ。それを原則とした上で、特定の集団の優遇(いわゆるコミュノータリスム)はよしとせず、平等主義に支えられた「統合政策」(インテグレーション政策)をモットーとする。これはアメリカやイギリスが、社会の中に共同体が形成されることを寛容する姿勢と一線を画す。

ところが現在のフランスでは、 共和国の価値観よりも自分たちの価値観を優先しようとする一部のイスラム系移民が、ごく一部のことではあるが、徐々に共同体思考を強める傾向がある。これに対して「統合」という既成のフランス社会の価値観をどこまで彼らに当てはめることができるかは、これからのフランスが取り組まなければならない課題だ。そうした観点からもイスラム系の多いアフリカや中東からの移民に比べ、キリスト教文化を母体とするウクライナからの難民は受け入れられ易かったとも言えるだろう。

「大きな歴史」と「小さな歴史」を結びつける某高校の試み

戦争の度にフランスとドイツの間で係争地となった歴史を持つグランテスト地域圏(旧名アルザス=ロレーヌ地域圏)の首府ストラスブールのある高校では、毎年5月に 第二次世界大戦中にナチスの犠牲となった当校の36人の教師と生徒の追悼行事が行なわれている 。「大きな歴史」と「小さな歴史(個人史)」を結びつけようというのが趣旨だ。6月1日付けのルモンド紙にこの催しについての記事が載っていた。

第二次大戦中に犠牲となったユダヤ人 が住んでいた住居の前に真鍮の記念プレートを設置する行事に、今年は、この高校のロシア語セクションの生徒ふたりと最近ウクライナから来たばかりの編入生一人が参加して、 ウクライナ生まれのロシア作家ヴァシリー·グロスマン(1905−1964 )の著作 『人生と運命』(注1)の一節 を朗読したそうだ。この著作は言うまでもなく戦争の犠牲となった東欧ユダヤ人への追悼文学の白眉だ。過去の出来事と今日がオーバーラップする。

また、高校の校舎の中央階段の壁には、ゴーゴリ(1809−1852)、タラス·シェフチェンコ(1814−1861、詩人、画家、近代ウクライナ語文学の始祖)、レーシャ·ウクライーンカ(1871−1913、女性作家、詩人 )等々の ウクライナ生まれの詩人や作家たちの著作の抜粋が、そしてロシア語セクションの教室の壁には、女生徒のひとりがフランス語とウクライ語の2カ国語で認めた詩が貼られた。

   私のウクライナは戦火の中
   空には黒いカラスが輪になって飛んでいる
   ナイチンゲールは静かに飛び去り
   その前を弾丸が横切る
   弾丸の発砲は止まない
   (生徒がウクライナ語と仏語で書いた詩)

この高校のロシア語セクションの生徒数は56人。彼らの多くは ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、アルメニア、チェチェン、アゼルバイジャン、モルドバといった旧ソ連諸国の出身者だ。そのうちフランス生まれは少数で、大半は今から3年から10年前にフランスに来た生徒たち。 ウクライナ侵攻が始まってからは8人の生徒がウクライナからやって来たそうだ。

戦争がいつ終結するかは分からない。ほとんどの生徒たちはこれからもフランスにとどまるだろう、中にはフランス国民になるものもいるだろう。行事はそうした生徒たちに自分の個人史を俯瞰する機会を与える。

私感 — ロシアへの憂い、ウクライナへの尽きない想い

次々と精力的に作品を世に送り出しそのいくつもが話題作となっているフランスの作家エマニュエル・キャレールは、 ロシアの異端児リモノフ(1943−2020)を描いた著作 『リモノフ』のなかでソ連の体質に触れ、「彼ら(ソ連の官僚たち)は自分たちの政治体制が腐っていること、それでも自分たちはそれに魂を売ったこと、そして他の連中もそれを知っていること、そうしたことすべてを承知していた」と書き、ソルジェニーツィンの次のようなことばも引用している —「ソ連の体制における最も有害な側面のひとつは、殉教者にでもならない限り正直者にはなれないということだ」(注2)。プーチン大統領のロシアも残念ながら全くそれと変わりがないではないか。

汚職だらけだったのはウクライナも同様だろう。でもウクライナは決して「小さなロシア」にはなりたくないのだ。最近私は仏訳になったロシア語のウクライナ作家アンドレイ・クルコフの描く現実と超現実の交叉する小説『ペンギンの憂鬱』の続編(注3)を読んだ。一見冒険物語のような語りの行間から自由を渇望するウクライナ人の必死な息吹が伝わって来る。

  1. グロスマンの母親と想定される女性アンナが収容されていたウクライナのゲットーから息子に送ろうとした手紙の一節。
  2. この訳は筆者。 日本語版は6年前に出版されている 。 エマニュエル・キャレール 著『リモノフ』(Limonov)、土屋良二訳、中央公論社、2016 年。
  3. アンドレイ・クルコフ著『ペンギンの憂鬱』(英訳は « Death and the Penguin »)、沼野恭子訳、新潮社、2003年。続編の邦訳は出ていないが、英題は «Penguin Lost » (2005)。

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