スローランニング:定年暮らし

引退vs定年退職

ご近所のアジサイの花

ご近所のアジサイの花

引退という職業人生一大イベントは、未踏のテリトリー。こういう場合は、やはり「ググる」しかない。ところが、である。「引退女性」のサーチ結果の上位は、「山口百恵ちゃんが人気の絶頂で引退」、「20代のオリンピック選手がメダル取得後惜しまれて現役を引退」であった。もっと適切なサーチワードは、「定年退職女性」。日本ではまだ少数であるらしく、定年退職女性に贈る言葉の用例も載っていた。私のロンドンの職場でも、定年退職する専門職女性は私が最初。前後して引退するはずだった女性同僚2名は、それぞれ出張中の事故と定年目前の病で亡くなってしまった。私はというと、仕事が立て込み、心の準備もないまま定年祝いの会をしていただき、無事退職したのだが、当分は、元の職場で週2日コンサルタントとして働くこととなった。

定年退職祝いのケーキ

定年退職祝いのケーキ

新たな日々

退職後も締め切りのある仕事ゆえ、月火水とオンライン、火曜出社で 中々忙しい。せっかく定年なのだし、木金はオフラインで、長年の課題だった断捨離をしたい。夫と二人暮らしだが、大学生で普段は大学寮で離れて暮らす娘の大学は、合計すると半年ほどしか授業がなく、夏休みに入ると所持品を自宅マンションに全て持ち帰って来る。彼女は山のような洗濯物も持ち帰るのだが、今回の里帰りの時には夫が不在で、私の手伝いが必要であった。彼女の大学で、家事一般教えてくれたらどんなに良いだろう。「人生がときめく片付けの魔法」のこんまり(近藤麻理恵)さんを教授に迎え、人生に役立つ技能を身に着けて欲しい。学年末パーティーに忙しい娘は、荷作りが終了せず、大苦労。そんな娘は、パンデミックでのロックダウン中にはストレス発散でオンラインショッピングにハマり、大量の服の所有者になってしまった。そして、私より先に退職した夫の趣味は本の収集で、迷惑なことにマンションに所狭しと本が山積み。退職前は、仕事中心で片付けなどできなかった。よって、退職後の木金の断捨離は私の一大事業になったのである。

心の癒し

ロンドンの夏の朝

ロンドンの夏の朝

そんな私の癒しは朝のスローランニング。若者が徒歩で先を越そうとすると、頑張ってスピードを上げたりはするが、それ以外はゆっくり50分。餌やりの猫婦人、出勤婦人、犬の散歩婦人、お散歩中年カップルと、顔なじみと挨拶を交わす。中年の新聞配達男子は、年齢の割に自転車操縦が軽やか。冬には朝焼けが美しく、ロンドンの夏は高原の夏のようで心地よい。ごみ収集の月曜の朝は、収集車の音ががーんがーんとけたたましいが、この大量のごみの発生に寄与する人類の一人として、いたしかたなし。ロンドンでは狐が住宅街に住んでおり、私もこん吉達によく出会う。都会狐は、人を恐れず、じっと私の顔を見返すものもいる。飼われていたのが逃げて繁殖している緑のオウムたちも木々にとまっているのを見つけることもある。リスたちは毎朝忙しく走り回り、にゃん達は、自分のテリトリーの見守りに余念がない様子。木々の深い緑、手入れの良いお庭のアジサイやバラの花々は色鮮やか。すでに、朝のニュースは世界の終わらぬ争いを伝えているだろうが、この時間この瞬間、生きているな、と思う。

コロナパンデミック

私が退職するまでの2年間、ロンドンはパンデミックによるロックダウン、自宅勤務が基本で、2020年1月末のカイロ出張以来、「ワンマイルライフ」を送ることとなった。この間の私の不満は、夫の作る食事の単調さ、自分が毎日同じ格好で過ごしてしまうことに対するものであった。娘によると、私は友人に電話をしては、この文句を繰り返していたそうである。お呼ばれもなくなり、食いしんぼうの私は悲しかった。しかし、私の問題は些末であり、英国では、2022年7月12日までに、18万人以上がコロナで命を落とした。

ソーシャルディスタンスのポスター

ソーシャルディスタンスのポスター

米国疾病対策予防センター(CDC)同様、英国国民保険サービス(NHS)も、英国内のコロナ感染率・死亡率で、少数(マイノリティー)人種が白人よりも2、3倍高い数値であったことを報じている。南アジア系、黒人系の犠牲者が多かったのである。2019年の Global Health Security Indexでは、英国は米国に次ぎ世界でトップクラスのパンデミック対応の用意がある国のはずであった。実際には、十分なストックがあるはずの個人用防護具(PPE)などは倉庫で使用期限切れ。後から公表されたのだが、PPEなどの新規調達については、緊急事態を理由に公開入札が行われず、政治家の紹介で直接調達されたものが多く、その多くが不適合品であったり、不当な高値がつけられていたりしたのである。

感染症対策は、検査、隔離、追跡を基本とするはずだが、PCR検査数こそ2020年中に格段に増えたものの、追跡については、民間委託のコールセンター方式を採用した結果、訓練不十分なアルバイトと自治体職員による対応で、残念ながら十分機能することはなかった。ちなみに、韓国、台湾のようなモバイルアプリ使用による追跡も、当初掲げられた大規模計画のとおりには実施できなかった。水際対策についても、指定国からの英国入国に際し、自己負担のホテルでの予防隔離はあったが、基本として、市民はコロナ診断が下っても自宅隔離で、症状悪化による入院以外、ホテルや隔離施設での収容という手段は取られなかった。流行がピークに達した頃には軽中症患者収容を目的とするフィールドホスピタル(ロンドンではナイチンゲールホスピタルと呼ばれる)も急遽作られたが、担当する医療者不足もあり、ほとんど使用されなかった。公共の場でのマスク使用も、世界保健機構(WHO)の躊躇もあり、要請が遅れてしまった。初期には、退院患者をPCR 検査せずケアホームに返して、ケアホームでの集団感染を発生させてしまった。

そんな中、英国は2020年12月からファイザー社のメッセンジャーRNAワクチン接種を世界の先頭を切って開始。私は、オックスフォード大学とアストロゼネカ社の共同開発によるベクター型ワクチン接種を2回受け、3回目はモデルナワクチンの接種を受けた。英国の持つ科学人材の恩恵を実感する機会であった。また、当初PPEも不足し、感染の危険にさらされながら患者の治療にあたったNHS の医療者たちへの感謝は、ロックダウン中、毎金曜日に行われた市民による拍手で表された。雇用者数全英トップでありながら、長年予算不足に苦しむ巨大組織NHSは、何とかパンデミックに耐えたのである。

一方、国民が家族の葬儀も最小限でしかできない厳しい規制の下で暮らす中、ボリス・ジョンソン 首相はパーティーゲート事件を起こし、その他諸々のガバナンスの問題によって、ついに退任に追い込まれたのである。

繰り返されるコロナの波が小さくなり、終息への希望が出始めた2022年2月には、ロシアによるウクライナへの軍事侵略が突発した。ヨーロッパに激震が走った事態は、膨大な死傷者と避難民を出し、今も進行中である。パンデミックに続く戦争、気象変動の影響による猛暑と干ばつと豪雨の夏は、21世紀も容易な世紀でないことを示している。

過去、現在、未来

ロックダウンが始まった時、娘は、以前このような経験をしたことがあるかと私に聞いた。私にも全くの天地逆転の事態。しかし、日本の96歳の父が教えてくれたのである。父の母親、つまり私の父方の祖母はスペイン風邪によって孤児となり、同じ村の家庭に引き取られ、長じてその家の長男、私の祖父と結婚し、父やその7人の兄弟姉妹が生まれたのである。私の存在理由そのものが、100年以上前のパンデミックによって作られたのである。私の父母も先の大戦を、ティーンエイジャーとして生きのび、私の存在もそこに依拠したと言わざるをえない。人類の歴史の絶え間ない困難と、その中での命の連鎖の中にある小さな自分や娘を思わざるを得ない。それ故、この地球に生きる命の存在に北も南もなく、ともに生きのびる道を模索する同世代人として、今この瞬間を生きていたいと思う。スローランニングで空を眺め、深い緑に包まれ、こん吉やにゃん達とともに。


ロンドン狐のこん吉

ロンドン狐のこん吉

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