息子の国際結婚
学生の頃から英語が好きで異文化間コミュニケーションに興味があった私は、大学ではイングリッシュ・スピーキング・ソサイエテイ(ESS:English Speaking Society)に入り、せっせとアルバイトをして貯めた資金で夏休みに英国ケンブリッジの夏期語学スクールに参加。その後、日米学生会議(JASC)にも応募して日米学生40名で1か月間議論を交わしながら日本各地を巡るという経験をした。その後、大学時代に知り合った夫の駐在で英国に約7年暮らし、そこで次男と三男を出産した。3人の息子たちをロンドン郊外で育てたのはとても楽しく興味深い経験だった。そんな話をいつも息子たちに聞かせていたので、誰か一人くらいはもしかしたら外国人と結婚なんていうこともあるかも…と夫と半ば冗談で話していたら、なんと現実になり、そのおかげでまたまた楽しく興味深い経験をさせてもらうことになった。
エイプリルの初来日
小さい頃からすぐ迷子になり、少し放浪癖のある次男は、中国の大学で1年間の語学留学した後、フィリピンのセブ島でも語学(英語)留学した。そこで先生をしていたフィリピン人女性、海と旅をこよなく愛する可愛いエイプリルに恋をして、4年間の遠距離恋愛を経た後、真剣に結婚を考えるようになった。しかし、彼女は日本に一度も来たことがなく、しかも次男はかなり忙しい商社マン。フィリピンでの生活とは大分違うことを知ってもらった上で決断したほうがいいのではないか、という私たち両親のアドバイスに応じ、2019年3月末にエイプリルは来日した。
その当時、私たち夫婦は夫の2度目の海外駐在でワシントンDCにおり、たまたま東京の自宅は空き家になっていたので、次男と彼女はそこで3カ月一緒に暮らすことになった。桜が咲き始めるとても美しい季節、異国で生活を始めるエイプリルを助けるために私も一時帰国した。早速彼女はJASCと縁の深い日米会話学院で日本語の勉強を始め、また私たち夫婦がJASCを通じて知り合った友人から紹介を受け、フィリピン人女性と結婚し日本で家族を作り幸せに暮らしていらっしゃる大先輩から体験談を聞かせてもらうという幸運にも恵まれた。ほどなくして二人は結婚を決意、フィリピン独立記念日である6月12日に婚姻届を出して晴れて夫婦となった。
フィリピンでの結婚式に向けて準備開始
多くのフィリピン人がそうであるように、エイプリルもカトリック教徒。幼い頃から大好きだったおばあちゃんに、「結婚式はカトリック教会で挙げるんだよ」と言い聞かされて育ったという。そんな彼女の想いを尊重し、結婚式は二人が出会ったセブ島のカトリック教会で行うことになった。フィリピンでは結婚式、披露宴はプロのウェディング・プランナーに任せることが多いらしく、式の準備はエイプリルと彼女が選んだウェディング・プランナーが中心になって進めてくれた。
日本で結婚式を挙げるなら新郎新婦の両親は黒留袖に黒っぽいスーツというのがお決まりだけど、私は着物を一人で着ることができないし、主人は暑い国でスーツを着るのはどうも…と乗り気ではない。さてどうしよう…という話になった時、フィリピンの伝統的な衣装を借りては?と提案してみた。それを聞いてエイプリルは大喜び。それなら自分の親族も皆そうして、結婚式の衣装は伝統衣装にしたいとのこと。よく聞いてみると、かの国の結婚式では参列者の衣装の色やテーマを決めて招待状を送るのが普通だそうで、実際に式の2カ月ほど前に出来上がってきた招待状には、式の日時や場所以外に、当日の服装についての色とスタイルが指定されていた。かくして、次男を含む男性の親族はバロン・タガログと呼ばれるバナナやパイナップルの葉の繊維から作られた刺しゅう入りの白シャツと黒いズボン、そして女性の親族はテルノと呼ばれる大きな袖のついたドレスを着ることになった。
フィリピンのウェディング・プランナー
衣装のことも式次第も何もかもを花嫁に任せたまま、私たち家族は式の数日前にセブ島に到着。フィリピンという国に対してのんびりしたお国柄というイメージがあった私たちは、ウェディング・プランナーとそのスタッフのプロフェッショナルな仕事ぶりに大いに驚かされた。しかもスタッフの殆どがトランスジェンダーだったのにも驚いた。皆が皆とても優しく、きめ細かい配慮に満ち、また役割分担が徹底されていて仕事をてきぱきこなしていく様に感動した。エイプリルによるとこの10年くらいでフィリピン社会の受容度が大きく進み、はばかることなく公にできるようになったそうである。ホテルやレストランのスタッフの中にもトランスジェンダーの人たちを見かけることが少なくなく、サービス精神にあふれ、きびきびとした動きで優れた接客態度の人が多かったのが印象的だった。
結婚式と披露宴
結婚式の会場はセブ市内の歴史あるセブ大聖堂(Cebu Metropolitan Cathedral; 1595年建築開始)だった。エイプリルの家族や親戚もはるばる故郷レイテ島から集まり、ウェディング・プランナーたちが運び込んだ花々に彩られた明るい大聖堂の中で、厳かに式は執り行われた。南国らしく大きな扇風機が何か所かにおかれ涼しく快適だった。とても人気のある教会らしく、その日も何組かの式があり、次男たちの式が終わるとすぐに次のグループの花や飾りが運び込まれ、テーマカラーなのだろうか紫の衣装を着た人たちが教会の外で沢山待っていた。披露宴はセブ島の隣にあるマクタン島へ移動。海辺のリゾートホテルで行われた。新郎新婦の両親は同じテーブルになっていて、初めて会う花嫁のご両親とゆっくり話をすることができたのがとても良かった。披露宴で一つ面白かったのは「ご祝儀タイム」。司会者がその旨アナウンスすると、明るい音楽が流れ始め、招待客が各テーブルの上に置かれた赤い封筒にご祝儀を入れて踊りながら新郎新婦が身につけている青いタスキにつけにいく。それも全員ではなく任意という感じでなんともおおらかな雰囲気だった。
未来に向けて
昨年エイプリルが来日して以来、次男夫婦は東京の私たちの自宅で暮らしているが、私は仕事のため一時帰国し1か月ほど滞在することが何回かあった。新婚家庭にお邪魔していたわけだが、いつ帰ってもごく自然に一緒の暮らしが始まり、おしゃべりを沢山して楽しく過ごすことができた。大家族の中で育ったエイプリルは異なる世代の人との間の取り方やコミュニケーションがごく自然にできるようだ。また、英語での会話にも助けられているかもしれない。私の語彙や表現力も限られているので、自然にシンプルかつ率直な会話になり、かえってそれがコミュニケーションを円滑にしているようにも感じている。
6月末に夫がワシントンDC駐在の任期を終えたため、私たちは日本に帰国した。次男夫婦は近所に住まいを見つけスープの冷めない距離に暮らすことになった。これから一緒に過ごす機会が増えるのを楽しみにしている。その分もしかしたら摩擦もあるかもしれないが、日本人同士だって世代や、生まれ育った地域、そして家庭の違いでいろいろな価値観があることを忘れずにいたい。異国で明るく頑張る嫁と、これからも助け合って楽しい共通体験を重ねていきたいと考えている。
神戸大学在学中第31回日米学生会議に参加。1989~1995年夫の転勤に伴い英国在住。2000年より練馬区役所、2013年より東京都庁の双方で外国人相談員を務める。2018年4月より2020年6月までワシントンDC在住。ワシントン日米協会おはなし会ボランティア、日米協会ナショナルジャパンボウル委員会委員を務めた。