現実の世界と非現実(想像)が繋がる物語『騎士団長殺し』(村上春樹著)
村上春樹の最も新しい作品「騎士団長殺し」の文庫版が本屋さんに高く積み上げられているのを見て、ミーハー気分で購入しました。「顕れるイデア」と「遷ろうメタファー」の2部構成、文庫本だと合計で4冊の長編大作です。
村上春樹はノーベル文学賞有力候補とされている作家ですし、イデアとかメタファーとかあまりよくわからない言葉を含むタイトルなので、かなり難解な本ではないかという先入観をもちました。しかし読み始めると、興味をそそられる個性を持った登場人物、ホラー、ファンタジーといった要素や、ドキドキするようなスリリングな場面、かなり速いペースで展開するストーリーに魅せられ、一気に読むことができました。この小説の中にはアンシュルス(ヒットラーによるオーストリア併合)、南京大虐殺、3・11などの歴史的事実への言及、また、リヒャルト・ストラウスの「薔薇の騎士」、シューベルトの弦楽四重奏などの音楽、それに加えて料理や車に関する話も登場し、とても娯楽性に富む、楽しい本でした。そうはいっても、ところどころに、はっと考えさせられる言葉も散りばめられており、この本をきっかけに私は作家・村上春樹に関心を持ち、もっと彼の本を読んでみたいという気になりました。
この小説の主人公「私」(なぜか名前はなし)は、美大を卒業した36歳の肖像画家。少年時代に仲の良かった12歳の妹が先天性心疾患でなくなり、その魂を呼び戻すが如く、妹の顔を描き始めたのがきっかけで、美大に入学します。学生時代は抽象画を描いていたにも関わらず、卒業後、肖像画家として人気を博するようになり、これを職業とし、本人は幸せだと思って妻・柚と暮らしていました。ある日突然、妻の柚から別れ話を持ち出され、家を出てポンコツのプジョーに乗って数ヶ月東北、北海道地方を放浪。そのあと、学生時代の友人・雨田政彦の勧めで、彼の父で著名な日本画家・雨田具彦がアトリエとして使っていた小田原の小高い丘の上に立つ家に留守番として住み、近くの絵画教室で絵を教え始めます。もう肖像画は描かないと決めていたのですが、ある日、エージェントを通じ、匿名で執拗にしかも法外な値段で肖像画の依頼を受け、描くことを承諾します。依頼人は「私」の住む家から谷を挟んだ丘の上にある白い瀟洒な豪邸に住む謎に包まれた免色渉という男性で、ここから「私」と免色渉に交流が始まります。
ある夜「私」はがさがさという物音が気になり、屋根裏に登ったところ、そこに包装用の和紙に厳重に包まれ、「騎士団長殺し」と言う題名がつけられた雨田具彦の描いた絵画を発見します。そこには、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の冒頭で騎士団長がドン・ジョヴァンニによって刺し殺されるシーンが、飛鳥時代の装束を着た人物に置き換えられて描かれており、絵の左下には、あたかもその現場の目撃者のように、四角いマンホールのようなものから顔を覗かせている人物(作者が「顔なが」と名付けた)が描かれていました。
そのうち、夜に鈴の音が聞こえるようになり、家の外の雑木林にその音の出所を探しに行ったところ、祠の裏にある小さな塚のようなものの下からその音が出ていることを突き止めます。免色の助けを借りて、「私」はその塚に積み上げられた石を取り除き、その中の石で囲まれた石室の床に、不思議な音の出所である鈴を発見します。
ここから、現実の世界と非現実(想像)の境界線が曖昧になり、この2つが繋がって物語が展開していきます。
ちなみに村上春樹の小説には、井戸や穴が現実と非現実をつなぐものとしてよく出てくるのだということですが、自分を深く掘り下げて考え、魂に触れるという意味なのではないかと解釈しました。
主な登場人物は、前述の「私」の妹、妻の柚、謎に満ちた男、免色渉に加え、免色が自分の娘かもしれないと考える、「私」の絵画教室に通う不思議な少女・秋川まりえ。ウィーン留学時代にナチス幹部暗殺に関与し、その体験を癒すが如くに「騎士団長殺し」の絵を描いた雨田具彦、東北を放浪中に見かけ、そのあと「私」の頭から離れない、スバル・フォレスターに乗っていた男などですが、特に妻の柚とまりえは、「私」の妹の延長線上にある女性のように思えました。
それに加えて、「騎士団長殺し」の絵から飛び出してきた身長60cmぐらいの「私はイデアじゃ」という「騎士団長」、四角いマンホールのようなところからでてきたメタファーを体現する「顔なが」などですが、この騎士団長と顔ながを見ることができ、彼らの言っていることを聞けるのは、「私」とまりえだけです。
いろいろな人物、ストーリーが網の目のように絡み合って描かれている小説ですが、そこに流れている1つのテーマは、主人公である「私」の魂を追求する旅路ではないかと思いました。
妹の顔を忘れないようにという純粋な気持ちで描き出した絵画も、いつかお金のために依頼主に気に入られることを目的に描くようになり、自分の殻に閉じこもって、妻との心のつながりも次第に希薄になり、挙げ句の果てに妻から別れ話を持ち出される・・・。そこから、「私」は、数々の不思議な体験、出会い、苦闘を通じて自分の魂を取り戻し、癒されていく過程がこの小説の底流として描かれていたような気がしました。
特に心に残った箇所はいくつかあるのですが、その1つが免色の肖像画を描くシーン。ただ目に見える顔の特徴だけではなく、目には見えない何か、その人の核心に触れるもの(これがイデアなのでしょうか?)を見出し、それを描こうとするプロセスがかなり詳しく書かれています。おそらくこれは、村上春樹の小説を書く作業にも通じることなのではないかと思いました。
一方メタファーですが、私にとってはとても抽象的な概念で、思考、関連性、因果関係いった言葉が頭に浮かびます。また何事もいろいろな視線から見ることができ、見方によってはかなり違ったものにもなり得るということなのかもしれません。
村上春樹はキリスト教信者ではないと思うので、この小説の中には神という言葉は出てきません。でもこの方は、目に見えない大きな力に動かされている感覚とか、スピリチュアルな体験の意味などに案外(信じているかどうかは別として)通じている方ではないかという印象も持ちました。
難しい話は抜きにしても、いろいろな角度から楽しめて、しかも思考の糧もある程度は与えてくれる、純粋に面白い小説だと思いますので、ぜひお読みになってください。
1980年以来ワシントン在住。長年にわたる会議通訳業から最近引退。