いけばなに寄せて
自宅で過ごす時間が長くなったせいか、花を家の中に飾ることへの関心が高まっている、と先日どこかの記事で読んだ。芽吹いている枝一本でも家の中に置いてみると、その場の雰囲気を変えてしまうので、生命ある植物の力はすごいとつくづく思う。
仕事をしつつなので折を見てという感じだが、ワシントンDC地域でいけばなを教えたり、紹介してかれこれ25年になる。国際色豊かなこの地域でも、以前は、郡主催教室のタイトルを“Ikebana”にすると、「何のことかわからない」と却下されてしまったものだ。しかし近年は、日本文化ブームもあり、いけばなについての認識も広まった感がある。
ワシントンといけばなインターナショナル (I.I.)
ワシントンDCはポトマック河畔の桜で有名だが、いけばなとも深い関わりがある。戦後の1956年に、「いけばなを通して友情を世界に広めよう」という主旨で、故Ellen Gordon Allen夫人により、非営利団体「いけばなインターナショナル(I.I.)」が東京に創立された。同年、初めての海外支部がワシントンDCに設立された。
現在I.I.は、160を越える支部が世界50ケ国以上に創設され、会員数は約7,600人以上にのぼる。DC支部は会員約200名以上を擁し、国立植物園での華展や、桜まつりなど様々な機会にイベントを開催している。流派を超えての友好活動が目的なので、国内外からの華道家によるデモンスレーションや、日本にちなんだテーマの勉強会も開催される時がある。
コロナ禍で外出規制が出された頃は、桜まつりのいけばなイベント企画の最中だった。昨年は、DC桜まつりパレードに参加する各州代表「さくらのプリンセス」にいけばなを紹介するI.I.のプログラムを開催した。プリンセスが一堂に集うと、まさに百花繚乱の華やかさであった。今年は実現せず残念だった。
数年来I.I.運営委員会のメンバーとして関わってきたが、I.I.の支部が世界中にあるのを知った時は驚くと同時に嬉しかった。海外支部設立の背景には、現地の日本人のご尽力もあるし、日本に滞在したことでいけばなに魅了され、自国に帰っていけばなを広める活動を続ける各国の愛好家の力もある。会員に若者層が薄いのが悩みだが、一方で、世間的には高齢といえる80代以上の先生方も、遠くまで教えに出向き、力強い作品をいけられるのを見ると勇気がわく。皆、「一生勉強よ」と仰る。
私といけばな
元来飽きっぽいのに、いろいろな習い事のうち、いけばなだけは細々であるが続いている。小学生の頃、近所の先生から伝統的な池坊流の手ほどきをうけた。先生がくださるおやつにつられて何とか続いた。大学に草月流のいけばなクラブがあり、ロックバンドの傍ら、いけばなクラブの部長を務めた。学生寮に花を持って帰れるのが嬉しかったからに違いない。渡米してからは、DCまで片道2時間通勤し、大学院に通い、子育てをしながらも、なぜかいけばな活動を続けることができた。
疲労困憊しつつ、クラスの準備をしたこともあったが、作品をいけ終わり、生け手とそのまわりが、ぱっと華やぐ瞬間を共有できるのがエネルギー源になっていたと思う。いけばなを通じて知り合った人々とのご縁は私の宝だ。また、植物に触れるだけでも何やら癒されるので、忙しい時ほど、リフレッシュ感を求めていたのかもしれない。
いけばなは長い伝統があり、流派も様々で、いけばなについてのあれこれをとても書ききれるものではない。自分の生けた作品に関しては、落胆することも多いし、華展も苦手だ。花それ自体の美しさはあるが、お家元の教えにあるように、花が美しいからといって、いけばなが美しくなるとは限らない。それでも、臆せず言うなら、私にとってのいけばなの魅力は、つかの間(ephemeral)のアートだということだろう。個性豊かな面白い形態と、素晴らしい色の花材を使い、自然の景色や思い、アイディアを抽象的に表す。時と共に変化し、長く残らないのがいい。同じものは作れない。飾る時、「家族や誰かが心地良さを感じてくれたらいいないいな」、と思うのもいい。
あとは、季節感や気の流れのような見えない力を表そうとするところか。試しに花瓶からすっと伸びた枝先をハサミで水平にパチッっと切ってみる。すると、枝のまわりの空気の流れまで変わってしまうのがわかる。枝に沿った、その先の何もない空間にまで見えないエネルギーの流れが伸びていたのが、切られたところでその流れが止まる。それが周りの空間にまで影響を与えているのだ。
いけばなの可能性
いける時は、線、色、塊(と空間との対比)といういけばなの重要要素を踏まえ、器と素材のバランス、置く場所や鑑賞者、目的なども考えつつ、全体の勢いや流れもみる。自然の物だけでなく、紙や布、金属なども、花を使った表現の重要なパートナー素材となる。器も様々なものに挑戦するように奨励されている。意外な取り合わせが、かえって新鮮で力強い作品につながったりする。絵画や彫刻とのコラボレーションも楽しいし、スケールも、床の間サイズに限らず、様々である。グループで一つの作品を作るのも面白い。
花を神に捧げたり、祝いや悲しみの場に添える習慣は、昔から世界中の文化にある。しかし、熟考しつついける過程までも”道“として精進する対象にしたのは、日本らしいと思う。枝ぶりの良い松など、それだけで力強く絵になるが、その上で、形や型のもたらす力というのもある。茶道、書道、柔道といった「道」になじみの深い日本人なら、「型」を習ったうえでの自由な表現という考え方にもあまり抵抗が無いかもしれないが、その「型」の習得に随分と時間がかかるというか、しきれないだろうな、というところは切ない。
いけばなは、引き算の美学といわれるが、枝や葉、花を取捨選択し、すっきりさせていくことはとても難しい。そうこうしていけているうちに、作品はその人を映し出してしまう。これまたお家元の教えだが、「いけたら、花は、人になるのだ」という。恐ろしくもあるが、植物の勢い、形態の面白さ、色や線の美しさにさそわれて、勉強を続けるしかない。
シンプルな花活け
いろいろ書いてみたが、日常には作為の無い一輪で十分だとも思ってしまう。庭や道で見つけた自然からのおすそ分けを、身の回りに置いてみる。そして、忙しい合間にちょっと眺める。夏場など、水を頻繁に取り替えるのも大変だし、ストレスになっては残念だ。それに、一輪に霧を吹いて水を多く見せた方が、かえって涼しさを呼ぶ。葉だけでも、すっきりと面白い作品ができるはずだ。自分で育てた庭からの一輪なら、尚楽しめるかもしれない。
外出を控え、新しいスケジュールや社会の約束事に慣れようとアタフタしている間に、桜は散り、庭では赤い薔薇やピンクの芍薬が咲き誇った。紫のライラックや菖蒲、藤が終わる頃、桑の実が熟し、青い紫陽花が雨毎に息を吹き返す。今は、暑さに負けない黄色いデイリリーがすくっと立っている。世の中の騒ぎやヒトの心のザワザワに関係なく、季節は巡って、それぞれの植物がマイペースで花を咲かせ実を結び、また次の季節に備える。寒すぎたり暑すぎたり、その年々のチャレンジがあるだろうに。
先が見えず、日々不安が心をよぎる昨今であるが、正気を保つためにも、立ち止まって花を眺める時間をとりたいと思う。
資料リンク:
Ikebana International
Ikebana International Washington, DC chapter
草月
96年よりバージニア州在住。テネシー大学で都市計画修士号取得後、米司法省市民権課選挙区分析部門の地理統計情報(GIS)アナリストを経て、ジョージメーソン大学博士課程に在籍。次世代小型航空機航空システム(Small Air Transportation System: SATS)の研究に携わる。SAIC、LEIDOS社で2014年まで連邦交通省及びDC政府交通政策関係コンサルタント、交通アセットマネジメントのプロジェクトマネージャーを務める。現在、リサーチ・コンサルタント。国際基督教大学同窓会DC支部代表。草月流いけばな師範。家族は、夫、娘と犬(バターカップ)。