認知症と向き合う

突然の嵐

わが家は、都心で暮らす子供のいない共働き。夫より少し早く帰宅できる私は、夜仕事から帰ると郊外で暮らす義母(以下「母」)に電話をすることを日課にしていた。特に、義父が他界してからは、落ち込みがちな母の気持ちを持ち上げたくて欠かさず電話をした。

2年前のその日、母は「ちょっと変なこと聞くけど、リビングの飾り棚の中身を全部入れ替えた?」と尋ねてきた。「えっ?」亡き父と各地へ旅行したときの思い出の品々が飾られた棚を私が覗く度に、母は1つ1つ取り出しては旅の思い出をきかせてくれたものだ。そんな大事な思い出の品がわからなくなっている?

数日後、今度は強い口調で「どうして勝手に家にはいってきて、物を整理するの?一言、断ってよ!」と怒鳴られた。振り返れば、数か月前から、「また、食べ物を沢山、冷蔵庫にいれておいてくれたのね。いつもありがとう」と礼を言われて、戸惑うことがあった。自分でした買い物を忘れてしまったのか?これってもしかして・・・?

格闘

ご存じのとおり認知症は複数の病気の総称で、症状にも個人差がある。比較的若くてエネルギーがあり、曲がったことが大嫌いな母の症状は、非常に激しいものだった。母の怒りは、自分が物をある場所に置いた記憶がなくなるため、人が勝手に物を移動したように感じてしまうことが原因している。そして、母を困らせようと夫と私がグルになって物を動かしているというのが、母が確信しているストーリーだ。当然、そんなことはあり得ないと反論するが意に介さない。

自分は息子をあれだけ面倒を見たのに、なんでこんな仕打ちをうけるのかと、毎日、昼夜時間を問わず、何十回も携帯に電話がかかってきて、口を極めて罵倒される。この電話攻撃のために、私たちは誰からの電話でも、ただ携帯電話の音が鳴るだけで、心臓がドキドキするようになった。しばらく着信音に使ったメロディーは、生理的に受け付けなくなってしまうので、何度も変えた。「家族が家で悪さをする」と何度も警察に通報され、警察にも謝りに行った。母ともみあいになり、床に倒れ怪我をしたことも。床に叩きつけたのか、腕時計や眼鏡が壊され、部屋の入口にバリケードが築かれていたこともあった。

私は母と戦っているのではなく病気と闘っているのだと自らに言い聞かせ、何とか母への怒りをマネージしようとしたが、血の繋がった夫は、変わりはてた母の状況がどうしても受け入れられず、母に対して怒りをぶつけてしまう。それがかえって火に油を注ぐ形に。

私は週に何度も仕事の後、母のところに通い、夜中に帰宅することになり、精神的にも肉体的にも疲弊した。私たちは、今の母の認知レベルでは、物で溢れる一軒家の家事を遂行することは難しく、そのストレスが症状を生んでいるはずなので、一刻も早く、シンプルな環境で生活のサポートが得られるところに居を移すべきだとの考えに至った。が、自分はどこも悪くないと思っている母をどうやって説得できるだろうか。夫婦で議論を重ねた。

穏やかに暮らすための鍵を模索

拍子抜けしたことに、母は思った以上に容易に老人ホームに入居してくれた。もとの一軒家では鍵を持つ私たちに容易に無断侵入されるが、玄関が管理されるところに移れば侵入が難しく、私たちの悪行が収まると母が考えたためだ。いまだに私たちの指図によってホームの人々が勝手に物を動かしてしまうという訴えは完全には無くならないが、以前より穏やかな日々を送り、私たちも生活の平穏を取り戻しつつある。

個人差があるので一般論としては言えないが、母の場合、穏やかに暮らせるための鍵は
1)投薬の調整を含めた適切なメディカル対応、2)デイサービスや老人ホーム等の私的・公的サービスを利用しながら、日中の活動量を増やすこと、そして3)本人に安心感を与えることだと思う。特に3)については、本人の行動の背景にある生活上の課題を解決することで安心感を与えることに加え、介護者と本人との軋轢を最小にすることが大事だ。でも、私たち夫婦にとって未だに難しいのはこの最後の点だ。

一般社会の正義の基準や規範からみれば、母の認識は誤りで、その行動は「問題行動」だ。私たちは、どうしてもその視点で認知症の母に対応しがちだ。しかし、認知機能を失った母の頭の中では、私たちとは全く違う景色が見え、ものごとが展開している。母はその事実認識に基づいて、全身全霊で正義の御旗を掲げて戦っている。根本にある認識を正そうとすると、母は自身の根本を疑い蔑まれているように受け取り、強く反発してくる。(ちなみに、多くの本に、「認知症の人の言うことを否定してはいけない」と書いてあるが、認知症の人の対処を容易にするためには、事実と異なると知りながらそれを肯定するのが肝心、といわれているように思え、理解しづらく、受け入れにくかった。そうではなく、認知症の人の頭の中で認識されたことは本人にとっては真実で修正不能なので、修正努力は無駄かつネガティブに効くから、別の効果的な解決策をクリエイティブに考えるべき、という示唆ととらえると理解し易い。)

フランスの戯曲家フロリアン・ゼレールの作品で、ブロードウェイを含め世界で上演され数々の賞を受賞した「Le Père(父)」という演劇をご存じだろうか。この演劇は、認知症を患っている父親の視点でセットや場面が展開するので、観客は、周囲で起きていることを父親がどう受け取っているかを体験出来るそうだ。このことを読んで、認知症を患う家族の立場になって考えるコツをつかめるような気がするので、是非一度観たいと思っている。

仮想フィルタシステム

このところ、私が自分の気持ちを整えつつ、母の訴えに上手に対処するために頭の中で使っているのが「仮想フィルタシステム」だ。母が興奮して被害妄想に基づいて訴え始めたら、「自動翻訳アプリ」をオンにする。すると母の言葉が「今、私の頭は混乱していて、このことがうまくいかず辛い。助けてほしい」という言葉に翻訳される。そう聞けば、それは大変だという気分になり、母の話を聞く態度にも表れ、シンパシーが母に伝わりそうだ。

次に、タイミングをみて「場面転換アプリ」を駆動。「お母さん、そういえば、あれどうなった?」と別の話題を振って、母の意識を全く別の場所にワープさせ、もとの訴えをしばし忘れてもらう。

追って、不安を生んでいる問題の根本的な解消を試みる。たとえば、「あなたが洋服を隠すから、着る服がない」という訴えに対しては、洋服を一覧し易いハンガーラックを導入する。こちらに精神的な余裕がないときは、訴えのきっかけだけ把握したら、仮想フィルタシステムの「音声」をオフにする。母の話を聞いている格好だが、話の中身は聞こえない。訴えのきっかけとなった課題については、別途落ち着いて問題の解決を図る。この仮想フィルタシステムは、今のところそこそこに機能しており、今後も使いながらアップグレードを図っていきたい。

最後に

認知症の家族への対応は、苦労の連続で、同様の経験を話し合ったり、相談にのってくれる相手は何よりの助けになる。地域の介護関係者、老人ホームのスタッフ、同様の家族を持つ職場の同僚や友人、そうでない友人にも、私は常に現状をオープンにしてきた。上記のように対処できるようになったのも、私の話を聞いて下さり、丁寧にアドバイスを下さった皆様のおかげだ。この場を借りて、心から感謝を申し上げたい。

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