私とウクライナ 核の脅威 悲嘆と希望と
2022年2月24日ウクライナ侵攻が始まってから、毎日の報道に胸をかきむしられるような思いをしている。というのも、プーチン・ロシア大統領が何かというと核兵器の使用をチラつかせるからだ。ああ、やめて、核兵器を使用したらとんでもないことになるのに!
私は人一倍核兵器関連のニュースに敏感だ。それは前回 「私のがん体験記」に書いたように父が被爆者であるからだ。
祖父母と父・伯母の被爆体験
少しだけパーソナルヒストリーにお付き合いいただきたい。
私の父方の祖父、大塚惟精は、1945年6月に中国地方総監に任命され、総監府の置かれた広島に赴任した。(地方総監府というのは、第二次大戦末期に通信や行政機能の寸断に備えて設けられた地方政府、ざっくり例えればState、総監は州知事か?)当時旧制中学の学生だった父は、両親に帯同して広島に赴いた。
8月6日の朝、祖父は、登庁しようとして迎えの車を待っていたところで被爆、官舎の梁の下敷きとなって動けなくなり、焼死・殉職した。祖母・伯母・父も官舎にいて被爆したが、祖母・伯母は瓦礫のなかから自力で脱出、父はわずかな隙間から祖母が救出した。祖母・伯母・父の3人は、被爆地の地獄を体験したものの生き延び、その後(表面上は)健康を回復し、家庭を持ち、父は二女(私と妹)、伯母は一男一女に恵まれている。
「被爆は悲惨であり、核兵器使用は絶対に禁じられるべきだ」ということを、私は早くから意識するようになった。家では毎年8月6日、9日は、平和式典のテレビ中継を見ながら黙祷させられる。小学校の社会科でも、広島・長崎への原爆投下についてきちんと教えられた。関西の小学校では、東京大空襲よりも扱いが大きかった。父の話してくれた被爆体験は、想像をはるかに上まわるものだった。
なぜ核兵器だけ特別視?
しかし、大学生になって、知見が広がるに従って悩んでしまった。確かに原爆の被害は悲惨である。しかし、悲惨な被害をもたらすものは他にもある。実際、ドイツ旅行で見聞きした市街戦や暴力行為も凄惨極まりなかった。
そもそも悪いのは戦争である。戦争がなければ兵器も必要ない。だから、禁止すべきは戦争そのものであるはずだ。なぜ戦争放棄とは別に、他の兵器とも区別して、核兵器の禁止を論じる必要があるのか?思考は堂々巡りするばかりになった。
しかし、社会人になってほどなくして父をがんで亡くして(享年56)からは生活に必死で、「戦争とは、核兵器とは?」という問を突き詰める余裕はなくなった。冷戦終結で核兵器の脅威も減少しつつあった。
一生続く放射線障害
そんな私の頭を殴るような事件が10年前におきた。私自身が卵巣がんに罹患したのである。診断時すでにステージ3C、かなり厳しい状態だった。幸い治療は大成功したが、治療後の生活充実のため様々な患者会に顔出しするようになった。そこで、愕然とした。被爆2世(3世)という方が結構な人数存在する。広島地方のリレー・フォー・ライフ(アメリカ発祥のがん啓発運動)を主導する医師からは、何年経っても慢性骨髄性白血病は広島県内で有意に多い、という話を聞いた。
そこで、ハタと気付いた。これこそが、核兵器と通常兵器との本質的な違いなのではないか、と!通常兵器であれば、インフラや生活が再建されればまた元の生活が戻ってくる。被災の影響が数十年も続いたり、数十年後に被災者や子孫が重大な病気に罹患するということもない。(だから通常兵器は良い、などという気は毛頭ない)。しかし、核兵器の場合、細胞が、遺伝子が、そして生態系も破壊されるため、建物などハード面が再建されても、環境面への影響は何十年も残るし、被爆者は一生放射線障害に苦しむ。
父の場合は、「一見普通に見える」くらいまで体調は回復したが、同年代と比べ全然体力はないし、下痢は一生続いた。そして、被爆後40年、とうとう放射線障害は牙をむき、がんに斃れたのである。
伯母は、(多くを語らなかったが)90歳まで生きたものの、やはり「他とは違う」(注射痕の化膿、尋常でない倦怠感その他)症状に悩んだという。
放射線障害は40年かけて父を殺し、70年後に私に襲いかかった・・・。
私がこんなことを考えていた頃、原爆投下を決断したトルーマン米大統領のお孫さん、クリフトン・トルーマン・ダニエルさんが、アメリカでの反核・平和教育に取り組んでいることを知った。そこで私は、原爆を落とした大統領の孫である彼に、落とされた側の被爆者の娘として 「1945年に何が起きたかを知ることは非常に大切です。しかし、被爆者の苦しみはその後もずっと続きます。核兵器は使用後何十年も人類に悪影響を与え続けることも訴えてほしい」 という内容のe-mailを送信した。するとなんとご本人から 「当面は1945年の出来事を知ることに集中します。しかしaftermathについても意識するようにします」 とのお返事をいただいた。
その後、ケリー国務長官(当時)やオバマ大統領(当時)の広島訪問も実現し、世界は核廃絶に向かうように思えた。子どもの頃から、ずっと追求している核廃絶への思いが満たされる方向へ向かうように思われた。
ウクライナ侵攻で再び現実となった核の脅威
ところが、今年、ウクライナ侵攻が起きた。プーチン大統領は、侵攻当初から、核の使用をちらつかせて揺さぶりをかけてくる。実際に使用したら世界大戦を引き起こしかねないことは意識しているらしく、実戦配備はしていないようだが、その代わり(?)原子力発電所を支配下に置いた。中途半端で放棄したけれど、多分放射能を何らかの方法で利用する意図であったのだろう。
ああ、まだ核の本当の恐ろしさを理解せず、核や放射能を脅しの道具として使い、人々を弄ぶ政治指導者がいる。あれだけ多くの人が何年にもわたって苦しみ、知恵を絞り、訴え続けてきたのは無意味だったのか?やはり訴え方が足りなかったのだろうか?私は何をやってきたのだろう?心がかきむしられる。
そんな思いに打ちひしがれているところに、希望の光が差し込んできた。ウィーンで核兵器禁止条約の締約国会議が開かれ、そこに日本の若者も自主的に参加したのである。しかも、SNSを使って情報発信したり、ネットで集めた署名を政府に提出したり、他国の政府代表団や平和団体と交流したりの大活躍。
被爆者らが、差別や偏見への恐れからできなかった政府への陳情や、語学力の問題からできなかった世界へのアピールを、被爆者の孫の世代の若者たちが協力して行っている。(核廃絶を目指して運動する若者たちの団体 KNOW NUKES TOKYO)
ウクライナ侵攻におけるロシアの「核の脅し」で自分の世代の力のなさ(妄想にとりつかれた政治家の暴走をとめられない、止めようともしない)にすっかり打ちのめされていたが、希望の光も見えたように思った。
1961年大阪生まれ。13歳まで関西で過ごし、14歳から埼玉へ。しかし中学・高校・大学そして仕事も東京と、典型的な埼玉都民。大学卒業後3年ほどドイツ系銀行に勤務。その後、英語・ドイツ語の文書翻訳フリーランス。2005年アメリカの公認会計士(USCPA)合格。2006年デロイト・トーマツ入社 、2008年デロイト・トーマツFAS。 2012年がんと診断された直後、7月末退職。 2017年リンパレッツ(がん治療の後遺症としてのリンパ浮腫の治療に用いる特殊な着衣やグッズを販売する小売店)を起業。