東欧モルドバの魅力に酔いしれて
2019年秋、東欧の小国モルドバ共和国へ行く機会に恵まれた。モルドバの高齢者の暮らしを視察するという仕事がなければおそらく自分で計画して旅行しようとは思いつかなかった国だ。ヨーロッパ最貧国で国境の北・南・東側はウクライナに、そして西はルーマニアに隣接する内陸国、といわれてもおそらく多くの人々にはピンとこない馴染みの薄い国かもしれない。知る人ぞ知るこの東欧モルドバ共和国の歴史を駆け足で紹介し、そしてその魅力を綴ってみたい。
壮絶な歴史を経た東欧の小国
モルドバは、14世紀に中世モルダヴィア公国として存立して以来、近隣大国の領土係争に巻き込まれ続け1991年8月に共和国としての独立宣言を果たした東欧の小国だ。オスマン帝国(現トルコ)の宗主権の下におかれたり、帝政ロシアとの間で度重なる領土変更が絶えなかった。1918年にモルダヴィア民主共和国として独立宣言するが、第一次世界大戦に巻き込まれる。ロシア革命が起きるとルーマニアが併合を宣言、黒海に面しドニェストル川・ドナウ川・プルート川に挟まれた一帯の地名に因みベッサラビアとして独立宣言しルーマニア王国の一部として領土の占領・併合を受ける。が、それを認めないロシアが併合の機会を狙い、1939年の独ソ不可侵条約でドイツと密約。第二次世界大戦勃発後、1940年6月に独ソ秘密協定に基づきルーマニアにベッサラビアを割譲させ併合。
第二次世界大戦後、1947年のパリ講和会議でルーマニアから正式にソ連に割譲され、現モルドバ(ベッサラビアの一部内陸部)は、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国としてソ連邦に加わる。その後47年にわたり反ソビエト国民運動は激化し、1989年8月に大規模デモが発生。翌年1990年6月23日にはSSRモルドバとして主権(共和制)を宣言。ソ連邦崩壊により翌年悲願の独立宣言。ロシア語読みの首都名キシニョフもキシナウに戻された。
首都キシナウでの散策
そのモルドバの首都キシナウに4泊5日という限られた日数の滞在となった。仕事の合間や会議が始まる前後、早朝か夕方以降にできるだけこの街を散策することにした。到着第1日目の夕刻はあいにくの曇り空。ホテルを出て数分足らずでシュテファン・チェル・マレ公園に到着すると、薄暗く灰色の空を背景に王冠と左手で掲げた十字架がくっきりと聳え立つ銅像が見える。14世紀中頃に成立したモルドバ公国建国の父と尊敬される、文字通りシュテファン・チェル・マレ大公(在位1457年〜1504年)だ。シュテファン大公は正教会聖人でもあり反オスマン帝国闘争の先頭に立ち、1475年にオスマン帝国との戦いに勝利しローマ教皇から「キリストの戦士」と称えられモルドバの英雄として慕われているという。
翌日はお昼休みを利用して散歩に出かけた。オレンジ色のマリゴールドが眩しい花壇に誘われ歩んで行くと、その先にはドーム状の屋根をした白い建造物がまるで光を放つかのように映えている。1830年代帝政ロシア併合下の時代、ロシア人建築家アブラム・メルニコフ(Abram Melnikov)により新古典主義建造物として設計・建築されたモルドバ正教会のキシナウの大聖堂だ。第二次世界大戦で爆破され、その後再建されたこの大聖堂内に足を踏み入れると、厳かな雰囲気の中、階上から生の賛美歌が流れ、祈りを捧げるモルドバの人々の姿がとても敬虔で美しかった。
大聖堂で思わずうっとりしながら聴いた賛美歌、そして祈るモルドバ人女性を目にして、モルドバ人ってどんな人たちなんだろう?という興味はますます強くなっていった。仕事で会うモルドバ人たちは、英語が堪能でとても洗練されている。またホテル近くの通りですれ違う人たち、特に女性は身だしなみがよく綺麗な人が多いという印象。本当にここがヨーロッパの最貧国なんだろうか、と思わずにいられなかった。
もっと“普通の”モルドバ人に会ってみたいと思いながら散歩を続けると、絵画や工芸品、そしてT-シャツなど小物を売る市場が目に入ってきた。そこでは、チェスに夢中な男性、小物を売る商人、散歩するモルドバの人たちに出会った。言葉は通じなかったけれど、皆とても物静かで人懐っこい表情が印象的だった。“Keep Calm and Love Moldova”という文字入りT-シャツが目に止まり、モルドバ人たちの小国の誇りがジワジワと伝わってくる感じがした。
「モルドバ、ワイン天国へと開かれた扉を持つ国」
そのモルドバ人の誇り、モルドバ・ワイン。出張前に、ルーマニア人外交官と話す機会があり、「仕事でモルドバへ行くんだけれど、、、」と話すと、「え、何もない国だけど、ワイン・セラーは超有名だよ。是非行ってみるといいよ!」とアドバイスしてくれた。モルドバが、自国のワイン作りに絶大な誇りを持ち「ワイン天国へと開かれた扉を持つ国」と称することを私は初めて知った。
モルドバがモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国だった時代、旧ソ連ワイン生産の25%を生産していたという。知る人ぞ知るモルドバの有名なワイナリーの中には、「モルドバ・ワイン作りの真珠」「迷路のような地下ワイン貯蔵庫」「モルドバ初、フランス式ドン・ペリニヨン手法のシャンペーンとスパークリング・ワイン」として有名なクリコヴァ(Cricova, 1952年〜)や、地下30〜80メートル・全長200キロの地下貯蔵庫で「世界最大の総距離をもつワイン貯蔵庫」「ビンテージワイン本数150万本」として2006年にギネスブックに認定されたミレスチ・ミーチ(Milestii Mici、1969年〜)がある。
私はお酒にめっきり弱くワインに詳しいわけでもない。それでも、モルドバに来たからには、やはりこの世界1〜2を争う地下貯蔵庫をもつワインセラーのどちらか一つは訪れたい。そして、キシナウ近郊のクリコヴァへ向かうことにした。
クリコヴァ・ワイナリー訪問は大正解だった。地下100メートルのワイン貯蔵「庫」、というより地下ワイン貯蔵「街」と呼ぶべき地下迷路120キロを、ゴルフカートのようなオープンカーで頬にひんやりした空気を感じながらガイドさんに案内してもらう。一年を通して常温10度〜12度、湿度97〜98%が自然に保たれる理想的な環境でのワイン作りと貯蔵。この地下貯蔵街の随所で車を停めてもらい、各名所の説明を受けた。クリコヴァ・ワインが樽や瓶で延々と貯蔵されている通路をゆっくり歩きながら、このモルドバがワイン作りで有名な所以を肌で感じることもできた。そうしたワイン作りの陰の功労者でもあるクリコヴァの労働者たちのために設置された地下教会と礼拝室にも驚いた。
クリコヴァに貯蔵されている最古のワイン(1902年もの)の展示を目にした時には、思わず腰をかがめて瓶の中をじっと見入ってしまった。そしてワイン・テイスティング・ルームへ移動。残念ながら、出張前に体調を崩し抗生物質を処方され、飲酒はドクターストップがかかっていたため、ワイン・テイステイングは諦めたものの、テイスティング・ルームに入っただけでその雰囲気に酔いしれることができた。
このクリコヴァには多くの著名人も訪れ、訪問者個々人が購入したワインも貯蔵されている。ロシアのプーチン大統領は、50歳の誕生日をここクリコヴァで迎えたとのガイドさんの説明。また、米国元国務長官ジョン・ケリー氏の購入したワインケースの前には、ミニ星条旗が飾ってあった。そして、ここクリコヴァで聞いたとっておきの裏話は、人類初、宇宙へ向かい生還したロシア人宇宙飛行士、「地球は青かった」という名言を残したユーリ・ガガーリン氏のエピソード。ガガーリン氏はクリコヴァを訪問し、地下ワイン・テイスティング・ルームへ入ったものの、なんと2日経てから二人のひとに両脇を抱えられて地上に出てきたとか。そのガガーリン氏、ユーモラスにその時の経験をこう語ったという。
「クリコヴァから出てくるのは、宇宙から地球に生還するよりも難しかった!」
「ワイン天国へと開かれた扉を持つ国」という表現が決して大袈裟ではないんだな、と思わず笑いながら納得してしまうエピソードだった。
クリコヴァ・スパークリング・ワインでダブル30周年祝い
ガガーリン氏のように「ワイン天国」の扉を開け、酔いしれるまでワインを堪能したとは決して言えないけれど、東欧の小国モルドバにとても魅了された。記念にクリコヴァ・スパークリング・ワインとお洒落なケースを購入してアメリカに持ち帰った。そして、今年はモルドバが主権宣言した1990年6月から30年(正式な独立30周年は来年2021年8月)。奇しくも私たち夫婦も同日に結婚記念30周年を迎えたこともあり、クリコヴァ・スパークリング・ワインを片手に、モルドバへの旅に想いを馳せながらダブル30周年のお祝いに酔いしれた。
国際学博士。2018年より英国ヘルプエージ・インターナショナル理事。2015年より認定非営利組織アドバイザー。英米及びアジア20カ国以上でビジネス・国際開発業務に従事。津田塾大学(BA)、国際基督教大学(MPA)、カリフォルニア大学(MA)、延世大学(PhD)卒業。2007年よりVIEWS編集委員。趣味はヨガ、2020年にインストラクター資格取得。