父の話
私のストーリー
去年の9月に父が他界、今年の春には実家の整理もやっと一通りすませた。そして、今更ながらやっとわかってきた父のことを、私はゆっくり考え始めている。5歳ぐらいのころ、私は出勤する父をバス停まで毎朝ひとりで送る時期があった。あの頃からずっと、本当は父が好きでしょうがなかったんだな。それなのに、ローティーンの頃から父の生き方を否定し、あんな風にはなりたくない、と思いながら生きるようになった。父には、結婚前から軽い躁鬱の症状と、明らかにサヴァン症候群と思われるところがあった。「外国人とつたない英語で話しするの、お父ちゃん好きやったやろ。あれはな、言葉の世界から解放されたかったからやで。小さい子供といるときもなんや楽しそうやったやろ。」父が亡くなってから、弟がそう分析した。そんな父だから、私に嫌われてどうしていいかわからなかったのだろう。私と父には、ほとんどものを言わない時期が15年近くもあった。
お互い幸運だったのは、そんなすれ違いの親子関係が父の定年退職を契機に180度回転したことだ。それから父が亡くなるまでの30年間、ふたりとも失われた親子関係を取り戻すことに必死になった。
“We all have a story. A story that gives us meaning and purpose, and how we organize our lives.”
オバマ前大統領が、どこかで語っていたのを聞いてナルホドと思った。
「孝行したいときに親はなし」「負わず借らずに子三人」など、この年齢になってやっと実感できるようになってきた私のストーリーは、父と私がほぼ断絶状態から、互いに愛情を渇望し、理解し合おうと歩んだ足跡。それは、まさしく、今、私に生きる意味や目的を与えてくれているーーということで、ここでは少し父の話をしたい。とりとめのない個人的なストーリーかもしれない。でも、一人ひとり自分のストーリーを思い起こすきっかけになってくれれば幸いである。
孝行したいときに親はなし
日本への里帰りは毎年1-2回、“今日決めて今日会える距離にいない”のだからと、休暇はほぼすべて両親のために使ってきた。それでも、海外に出ている人たちが自分を称してよく言う「この親不孝もの」である私に、後ろめたさはいつもついてまわった。
去年、長い間叶えたかった“仕事をやめる”夢が実現した。頻繁に好きな時に日本に里帰りができる、職場に戻らなければならないのを気にせず親と旅行ができる、とワクワクしていた。父が亡くなったのは「これからは!」そう思った矢先だった。
せっかく仕事を辞めたんだからあと1年は生きていて欲しかった、などと都合のいいことを思ったりした。言っておきたいことがいっぱいあったし、ふたりだけで昔のように一緒に旅行したかった。早くに親を亡くした友人はたくさんいる。父は89歳だった。文句は言えないはずだ、と自分に言い聞かせる。でも、やっぱり、私や家族にとって父の死は突然で、妹と私は呆然とし、これからどうして生きていこうと毎日泣き暮らした。10代前半か20代後半までほとんど父と話した記憶のない私と父は、この30年間、ずっと失った何かを取り戻そうとしてきた。それでいいじゃないか、と友人や親戚からも慰められる。
「親をあの世に送ってやっと安心できるんやで」と慰める友人は、まるで自分の親を亡くした寂寥感に打ちひしがれているように見えた。親が先に逝くのは当たり前なのに、いつまでも生きていて欲しいなんて、どうして思ってしまうのだろうか?
去年の夏、私がアメリカに戻るや否や父が病院に搬送された。あわてて、日本へトンボ帰り。「お父さんの肺炎はもうよくならないでしょう。」と担当医に言われた。病院生活や精神剤は、父の人格を急速に奪いつつあり、もはや入院していることに意味は無かった。父の強い希望もあり、家族全員で父を退院させることに決めた。
先がちゃんと見えていた介護で、大変とは言い難いものだった。けれど、個の人格として尊厳を保とうと必死にあがいている父を毎日見るのはつらかった。タイのコサムイ島で私の水着姿を見て笑い転げていた、あの楽しそうな父は帰ってこない、そんなことを毎日思い嘆いた。
退院して3週間後、父は亡くなった。それはちょうど、私がアメリカへ一旦戻る予定にしていた日の2週間前だった。「お父ちゃんらしいな、のりが戻る前にちょうどいい日を選んで死んでくれたんやで。お葬式終えて、ちょっと休憩して帰れるように。」弟や妹は、私のアメリカ帰国を考慮に入れて、父が自ら死ぬ日を選んだと言い張った。あり得る、と思った。昔から、綿密になんでも計画を立てる人だったもんなあ。
私と父の不幸な共通点は、常に人の愛情に関して不安にかられ、深く考えすぎるところだ。他人とはすぐ打ち解けるのに自分に一番近しい人とはコミュニケーションがうまく取れない。父と私はお互い深い愛情を抱いていながら、それを一度も互いに言葉で表現できなかった。父の不安は、いったいどこから生まれてきたんだろうか?
父の幼いころ
「あんたのお父さんは、苦労のない人やから、経済観念がまったくないねんで。」母や同居していた祖母はしょっちゅうそうぼやいていた。
羽振りのいい大阪の家で、父は5人兄弟の真ん中に生まれた。父の父親、私の祖父は、大きな建設工事の請負会社を経営していた。祖父には、二号さんとよばれる今でいう愛人がいて、公然と旅館を経営させていた。父は、幼いころ母親に内緒でよくこの女性のうちに遊びに行ったらしい。子供がいなかったこの女性は、父をずいぶんかわいがってくれたという。この女性が亡くなった時、お葬式に参列したのは、家族の中で私の父だけだった。
「あんたのお父さんは、気がええ人やからなあ。どんな気持ちで父親の二号さんのお葬式にひとり出ていきはったんやろなあ。」祖母の言葉に、「いったい、うちのお父さんはどういう性格の人や?」と、子供心に思ったものだ。
大阪で創業した祖父の事業はどんどん大きくなり、最終的には熊本八代で戦前戦中かなり大規模な企業に成長し、今の北朝鮮あたりにも、友人たちと化学薬品会社を設立している。高価そうな着物を纏う父の家族の写真。赤ん坊のころ健康優良児に選ばれた父の写真は、まるまると太っていてとても幸せそうだ。母と父それぞれの幼少期の思い出話しには雲泥の差があった。母方は、家柄だけはよいがお金のあったためしがないという家だった。そんな家庭に育ったしまり屋の母を、父は死ぬまで尊敬し頼りにしていたようだ。
今思うと不思議なことに、父から祖父の話しを聞いた記憶がほとんどない。父親である祖父との関係の希薄さ、そこに肉親とうまくコミュニケーションの取れない父のトラウマの始まりがあったのだろうか?
自分の中に父を求めて
愛しい人が亡くなってしまった悲しみを乗り越える一番の方法は、亡き人が遺してくれた思いや言葉そして行動のなかで、自分が一番好きだったその人を自分の中に見出すこと。平凡さの中に大きな幸せを見つけようとした父。弱者のことをいつも考えていた父。そして、「家庭では、文句が10あっても、口に出していうときは、1か2で抑えておけ」と、妹や弟にアドバイスしていたという父。アメリカで、10言いたいことがあれば、15くらい言ってしまう癖のついてしまった私にはこれが一番難しそうだ。が、自分の中にそうした大好きな父を見つけられるよう、これからは生きていきたい。
同志社大学法学部、カナダ・マギル大学大学院修士課程(社会学)を卒業後、国際労働機関(ILO)、国連食糧農業機関(FAO)、経済協力開発機構(OECD)、世界銀行、アジア開発銀行(ADB)で一貫して人事管理・採用に従事。2018年12月、世界銀行を退職。著書に「世界で損ばかりしている日本人」(ディスカバー携書)現在はバージニア州にて、アメリカ人の夫、愛猫ピギー、グレムリン、バディーと暮らし、体力づくりと執筆に励んでいる。