「原爆記者」、広島へ行く

8月6日の原爆の日、夕暮れ時の原爆ドーム(右)の周辺にはとうろう流しを見るために多くの人が集まっていた。

8月6日の原爆の日、夕暮れ時の原爆ドーム(右)と相生橋周辺にはとうろう流しを見るために多くの人が集まっていた。

2019年8月6日火曜日の午後4時過ぎ。史上初めて原子爆弾が広島に投下されてからちょうど74年後のこの日、東京から新幹線で広島に着いた。長い梅雨が終わって全国的に暑い日が続いており、広島駅のホームに降りると蒸し風呂のようだった。

長崎には10年ほど前に一度行ったことがあるが、広島を訪れるのは初めてだ。ホテルに荷物を置いてから、路面電車に乗り、原爆ドーム前で降りてみた。毎年8月6日「原爆の日」には投下の時刻午前8時15分に合わせて、平和記念公園で大規模な式典が行われ、首相や各国の代表が参列する。夜には原爆ドーム前を流れる川でとうろう流しが行われることもあり、夕方になっても公園とドームの周りには多くの人たちが集まっていた。外国人の旅行者も多く、スペイン語やイタリア語があちらこちらで聞こえた。

地元の子どもたちが絵とメッセージを書いたとうろう

地元の子どもたちが絵とメッセージを書いたとうろう

原爆ドーム前でとうろう流しを待つ人たち

原爆ドーム前でとうろう流しを待つ人たち

とうろう流し

とうろう流し

大学院の同級生と20年ぶりに再会

私が教鞭をとっている大学が休みの8月なので、2泊3日の旅行が可能だったということもあるが、広島へ行ったのには理由がある。今年の初めごろ、1990年代に大学院で一緒だったケン・ラザフォードというアメリカ人のことを思い出し、フェイスブックで見つかったので連絡したところ、偶然にも8月に日本へ来る予定があるという。広島大学など世界のいくつかの大学から学生が集まって約10日間にわたって世界の課題について話し合い、国連に倣って解決方法を協議するプログラムに彼の大学も参画しており、その一環として広島大学で講演するためだった。

広島大学で講演するケン・ラザフォード

広島大学で講演するケン・ラザフォード

ケンはDCにあるジョージタウン大学大学院在学中から、ちょっとした有名人だった。NGO活動に携わっていたソマリアで、乗っていた車が地雷を踏み、膝から下の両足を失ったのは1993年のこと。その後、国際的な市民運動・地雷禁止国際キャンペーンInternational Campaign to Ban Landmines(ICBL)に加わり、イギリスの故ダイアナ妃が地雷問題について視察するため旧ユーゴスラビアのサラエボを訪れた際には案内役を務めた。ダイアナ妃の支援もあって地雷禁止条約が現実のものとなり、ICBLは1997年にノーベル平和賞を受賞した。わたしが彼と知り合ったのもこの頃で、大学院には義足で、あるいは車いすで通っていた。4か国5カ所の病院で足の治療と手術を受けながら、博士号を取得したのだ。

ソマリアでケンと同僚が乗っていた車の進行方向が少しだけ違っていたら、全身がジューサーで砕かれる果物のようになって、助からなかっただろう。命が助かり、ケガの治療を受けることができたことに感謝して、ケンは脇目もふらず研究に取り組んでいた。ICBLに加えて、障碍者の権利に関する運動などにも貢献し、4人の子の父親にもなった。

ICBLは国家の枠を超えたグローバルな市民社会と市民運動のモデルとなり、その精神は2017 年にノーベル平和賞を受けた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)にも受け継がれている。ICAN

の活動には広島で被爆したサーロー節子さんも参加しており、ケンと20年ぶりに再会できたのが広島だったことは感慨深かった。

「原爆記者」だった1990年代

わたしにとって、広島を訪れるのは特に意味あることだった。大学院に進む前、日本の全国紙ワシントン支局で勤務していた1990年代前半はちょうど太平洋戦争の50周年にあたり、原爆投下機エノラ・ゲイの展示や第二次世界大戦の主な出来事を絵柄にした切手の発行などが相次いだ。「原爆投下が戦争終結を早めた」という説明文をつけたキノコ雲の切手デザインには日本の被爆者らが猛反対し、日米の外交問題にまで発展した。なぜかこうした一連の報道を担当することになったわたしは会社内で、「原爆記者」と呼ばれていた。エノラ・ゲイ展をめぐる問題の責任をとって辞任に追い込まれたスミソニアン航空宇宙博物館館長にも単独インタビューした。同博物館では、「原爆が投下されていなければ、戦争は長引き、自分も命を落としていただろう」と語る元米軍人の方に会ったこともある。原爆が投下されたことで失われた命と助かった命――。兵士と民間人の命を同じに論じることはできないだろうが、日本に住んでいた時には疑いなく「非人道的であり、許されないこと」とだけ信じていた原爆投下には別の意味もあることを考えさせられた。

分断と対立の中で平和を求める

原爆死没者慰霊碑(手前)と原爆ドーム(奥)

原爆死没者慰霊碑(手前)と原爆ドーム(奥)

広島の原爆ドームは教科書の写真で見るより小さく思えた。あの日、74年後には広島に青々と木が再び茂り、地元の人に交じって世界各国からの旅行者が時として真剣な面持ちで、また同時に家族や友人たちと談笑しながら、ドームの周りで写真を撮ったりする日が来るとだれが想像しただろうか。

平和があるから、学校に行ける。家族と一緒にいられる。旅行に行ける。そして、国内外からの旅行者を迎えることができる。2019年8月6日の広島には、平和があるからこその風景があふれていた。

しかし一方で、今日の世界情勢を見ると、戦争は遠い過去の不幸な出来事であり、今日の私たちには無縁、とは思えない。多くの国において、平和の礎である寛容や共生といった価値観が脅かされているからだ。今年の広島平和宣言は、「世界では自国第一主義が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張を高め、核兵器廃絶への動きも停滞している」と述べている。トランプ米大統領の当選に始まって、欧州各国でも内向きで排他的な政党が力を増しつつあり、英国は国際協調と融合を目指す欧州連合からの脱退を決めた。平和宣言はまた、平和で持続可能な世界を実現するためには、「私たち一人ひとりが立場や主張の違いを互いに乗り越え理想を目指しともに努力するという『寛容』の心を持たなければならない」とも訴えている。

お好み焼き屋で一緒になったフランス人の旅行者グループ

お好み焼き屋で一緒になったフランス人の旅行者グループ

広島の旅といえば、お好み焼きと宮島の厳島神社は外せないが、そちらにも外国人旅行客はたくさんいた。鉄板で広島風お好み焼き(焼きそば入り)を焼く店が多数入っているビルに行ってみると、ここは日本なのかと思うくらい、外国人、特に欧州系の人たちが多かった。隣に座った若いドイツ人女性と話し込んでいると、やって来たのはフランス人11人ご一行様。フランスとドイツといえばかつては敵同士。その両国の人たちが普通にお好み焼きを一緒に食べられる、その平和のありがたさをかみしめつつ、帰路についた。

宮島の鹿

宮島の鹿

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