ルーツを探すことで見えてきた自分

北九州で出会った友達と着物での記念写真(2018年、筆者は右)

北九州で出会った友達と着物での記念写真(2018年、筆者は右)

22歳で渡米した祖母

祖母が渡米したのは、1951年の大晦日であった。22歳で片言しか英語が話せなかった祖母は米兵と結婚し、故郷の東京からアメリカの西海岸まで船に乗り、そこから夫の出身地であるイリノイ州まで車で行った。飛行機で簡単に行ける今の時代では想像しがたい、長い旅であった。

最近、私は日系人定住者ビザを申請するために、様々な市役所や区役所に連絡し、書類を集めている。それを通して分かったことの一つは、祖母がアメリカ人と結婚しアメリカに移住した後でも、日本国籍を持ち続けていたということである。日本のパスポートを使い渡米し、14年間外国人としてアメリカで暮らした。ようやく米国籍を取得したのは1966年であったということが初めて分かった。そして、1979年に日本国籍を喪失したようである。その14年の間、祖母は私の父も含めた3人の子供を育て、一度日本にも連れてきた。英語しか使えない日常生活の中で祖母は英語をどんどん身につけていったのであろう。

私は小学校4年生の時、授業で移住について勉強した。そこで、家族や知り合いの移民にインタビューをするという課題があった。その時、祖母に電話し、渡米の経験について様々な質問をしてみた。そして、移住で一番大変だったことを聞いたら、その答えが「英語を習うこと」であったことを今でもはっきり覚えている。22歳の時まで英語やアメリカの文化を勉強していなかった祖母にとって、日本語が話せる人が全く周りにいないアメリカに住むのはどれだけ大変なことであったか、想像はできない。祖父ともコミュニケーションが上手く取れなかったことはきっと辛かったであろう。

祖父母の結婚記念写真(1951年)

祖父母の結婚記念写真(1951年)

22歳で渡日した私

日本人の血が流れていると言われながらワシントンDCで育った私は、小さい頃から日本に興味を持っていた。7歳の時に日本を訪れ親戚に初めて会ったおかげで、せっかく日本人の家族がいるのなら日本語が話せるようになりたいと感じるようになった。その時から日本人の家庭教師に日本語を教えてもらったり、高校と大学の日本語の授業を受けたり、日本で短期留学を経験したりすることで、日本語と日本の文化を勉強しようとしてきた。どんなに勉強しても日本語が中々身につかないことが悔しかったので、いつか日本に住んでみたいとずっと思っていた。それで大学生の時、日本語を専攻し、一年間早稲田大学の日本語教育研究センターに交換留学をした。留学のおかげで日本語が非常に上達し、日本文化の理解も深まったが、やはり一年間では足りないと思った。

そのため、去年、大学卒業直後、「語学指導等を行う外国青年招致事業」(JETプログラム)を通して福岡県に移住した。アメリカを出た時、22歳―祖母の渡米年齢と同じ―であった。現在、北九州市の小倉高校で外国語指導助手(ALT)として働いている。アメリカのことを知らずに渡米し、周りに日本人がいなかった祖母の経験に比べると、私の福岡県での生活は楽だといってもいい。JETプログラムの先輩達、職場の先生方、県職員住宅の入居者達等、周りに支えてくれる親切な人が多い。北九州で素敵な出会いが多く、大変感謝している。日本に来るまでずっと夢だったことが、信じられないほど色々と実現している。いつ日本語が話せるようになるか不安だった私だが、去年ようやく日本語能力試験の一級に合格し、最近では漢字能力検定に挑戦している。英語ができない高齢の親戚に会いに行くとき、コミュニケーションが取れるようになったことは何よりも嬉しい。曽祖父の出身地である山梨県でお墓参りができ、祖母のいとこに会え、先祖のことも知ることができた。そしてアメリカで育ち、七五三も成人式もなかった私は、誕生日に着物で記念写真が取れたことに大変感動した。

日本での自分探し

日本での生活を通して祖母のことが前より分かってきた気もする。祖母は66年間のアメリカでの生活を通して当然英語がペラペラ話せるようになった。しかし、どんなに時間がたっても、「r」と「l」の区別や冠詞の使い方に対しては、ネイティブの感覚は身につかないのである。コミュニケーションが問題なく取れるにもかかわらず、日本人っぽい発音でしか話せない。話し方だけでなく、考え方や行動にも日本の影響が大きいのではないかと思う。日本で生まれ日本で育った祖母は、日本的な考え方や価値観を今までずっと抱き続けてきた気がする。その祖母に育てられた父も日本の影響を受けているのではないかと日本に住んでみて改めて思った。

アメリカと日本の文化は異なるところが多いので、それぞれの文化の中で育ってきた人々は常に意識しているところも違う気がする。そのため、英語には上手く訳せない日本語の表現が多い。例えば「気を遣う」「気が利く」「空気を読む」「社会人」「意識」「人見知り」「遠慮する」「我慢する」「仲良くする」「よろしく」「お世話になる」などは、日本的な考え方を表しているので、英語に同じニュアンスを持っている言葉はなかなかない。しかし、父はそういう感覚を持っている気がする。アメリカで生まれアメリカで育ち、英語しか話せない父はそういう概念を言葉で表現することはできなかったが、理解と意識はしていたと思う。そして、その父が私を育てたので、私もそういう考え方や価値観をずっと抱いてきたのではないか。日本語が話せるようになるまで、そういう概念は言葉にできなかったので、日本語を勉強して初めて自分の気持ちが理解できるようになった気がする。

日本語や日本の文化に関してはまだ分からないことが多いが、日本の学校で働いたり、合気道の授業を受けたり、日本人の友達を作ったりすることで、少しずつ分かってきている気がする。日本の文化を知れば知るほど、祖母や家族について様々な小さい気づきがある。そんな風に自分の家族を理解することで、自分のことも理解できるようになると思う。今の自分にとっては、日本に来て本当に正解だったと思う。これは自分が理想とする人間に成長していくためには不可欠な経験に違いない。

大叔母と父と山梨県でのお墓参り(2018年、筆者は中央)

大叔母と父と山梨県でのお墓参り(2018年、筆者は中央)

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