NPOと私:出逢いから今日まで

私は今年秋には75才、後期高齢者となります。NPOについて本格的な分析を含めた歴史を語るには限界があるのですが、私の大好きなWJWNの仲間に向けて、気楽に思いつくまま、自己流のNPO史を綴ってみます。

戦後日本のNPO の萌芽:母親たちの地域活動

NPOという言葉は1990年代以降に使われるようになったものですから、私のNPOとの出逢いは、正確に言うならば私の子供のころ、1950年代の日本の地域運動との出逢いに始まるものです。

私が懐かしく思い出すのは、1950年、60年代の東京の山の手、目白の暮らしです。私の父は日本の民主主義教育の発展にかけた、左翼、リベラルといわれた大学教授でした。戦後まもなく父が借金して買った細い私道の奥の土地は、かなり広く、いつも草木がのびのびと生い茂っていました。そこに小さなバラックと、主婦が働きやすいようにと設計されたダイニング・キッチンのある家がありました。

私が中学生のころ、父は地域の小中学校の先生たちと、教育の現場の話をする会を毎月のように開いていました。もうもうとしたたばこの煙の中で、先生たちと夜遅くまで真剣な議論が交わしていました。父はこの会を通して、現場で何が起こっているかを知り、いかに教育に対する国家権力の介入を阻止するかを考えたわけです。父の現場第一主義の実践の場であったと思います。

問題を抱え、悩んでいる先生方が地方からも訪れてきていました。父はこうした先生たちを慈しみ、大事に思い、先生たちの闘いに感謝していました。大学のゼミの学生は、4月と正月、卒業のときは必ずやってきて、母の手料理をたいらげ、飲んで、歌っていきました。

母は母で、地元の小学校のPTA から始めて、区の教育委員もやり、日本子どもを守る会、豊島子供を守る会、日本母親大会など、母親を中心とする活動に取り組んでいました。これらは今でいう市民運動の原点だったといえます。こうした母親たちの集いは午後が多かったのですが、夕暮れ時になると、みなそれぞれの家庭に帰る支度にそそくさとしていました。羽仁説子、矢島せいこ、丸岡秀子、山家和子、宮原喜美子、宗像なみ子など、平和を守り、社会の変革に取り組んだ時代に走り出した女性たちですが、おおらかで母性豊か、力強く美しい母親たちであったと思います。

そのころはわかっていたわけではないのですが、彼女たちは、その後の商業化されたきれいなお母さんとか、さらにその後のフェミニスト運動の女性たちとは明らかに異なっていました。私はキッチンの片隅で、早く帰ればいいのにと思いながらも、彼女たちを一種のあこがれの目で見つめていました。大人になったら、あんなふうになりたいと。

目白の家で開かれていた母たちの活動は、戦争の悲惨を体験し、二度と戦争はさせない、平和憲法を守るという、今でいえば未熟な安全保障論を固持するものでしたが、いわばNPOの原点、党派性を超えて、日本の民主主義への期待と情熱をこめた、日本の市民社会への第一歩でした。

NPO、アメリカン・デモクラシーとの出逢い

私がアメリカで非営利活動組織に最初に出逢ったのは1970年初めに、夫のMIT留学についてボストンに来た時です。寒い冬のボストンで、貧しい留学生の家族として暮らした日々は、若かったころだからできたのですが、金銭ともに大変でした。にもかかわらず、私は多くの学びのチャンスに出逢いました。

大学内での学生家族のコミュニティーでの学びの機会、働くための訓練の場が与えられていました。ボランティアとしてよき人々は、私たち家族が地域の暮らしに入り込めるように常に助けてくれました。何か日本の地域社会と人々とは違う寛容さがあると思いつつ、それが何かわからないまま帰りました。MITでは社会計画、コミュニティー計画といった「計画」と政策の一端を盗講しながら(?)学びました。

私の人生を振り返るとき、仕事と生き方において、もっとも大きな影響を受けたのは、その次にアメリカで暮らすことになってからのことです。ことの成り行きは省略しますが、今から30余年前、私はワシントンDCのシンクタンク、アーバン・インスティテュートで働くようになりました。そこで間もなく、アメリカの最良の部分は、そのデモクラシーと市民社会の理念の追求にあると確信しました。そして、その理念の追求の担い手として、多くの民間非営利組織の存在があると気づいたのです。詳細は、WJWNにもいくつかすでに書かせてもらいましたので、繰り返しませんが、1986年から日本に向けて、アメリカの市民社会と民間非営利組織の紹介を始め、1990年からは積極的に市民社会と非営利組織の役割を主要新聞や雑誌に書き、自ら日本に行き20か所以上、講演、座談などして回りました 。

その結果とは言いませんが、多少のモメンタムを与えることができたでしょうか、10年後、多くの関係者の努力の結果、1998年に日本にNPO法が出来ました。これは明治時代からの民法上、官庁に縛られた公益活動を自立的市民活動とするもので、日本の市民社会の成長に画期的な意味を持つことになりました。それが一昨年、20周年を迎えています。

日本のNPO組織法人数は約5万(平成30年)、労働市場規模として1兆円産業といわれています。アメリカのNPOは内国歳入庁(IRS)に登録されているものが150万から220万組織(組織基準が異なるので数値に幅がある)。2014年ではノンプロフィット・セクターは8780兆円、米国のGDPの5.4%を占めています。およそ、1400万人、全雇用者の9.7%を雇用していると算定されます。

独立シンクタンクの必要性

私は、アメリカのノンプロフィット組織は、アメリカのデモクラシーという理念を具体的にこの社会に定着させ、機能させる過程、プロセスであり、手段であると考えます。フランス人政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルから学ぶことも多々ありますが、アメリカ社会に関わろうとすれば、この社会の基盤にノンプロフィット・セクターがあることが見えてきます。

NPOに続いて、私は政策研究者として独立非営利シンクタンクの重要性に気づきます。1992年から日本経済新聞『経済教室』で3回ほどアメリカのシンクタンクを紹介しました。1995年には笹川平和財団のサポートを得て、東京にロバート・マクナマラ元世銀総裁や著名な世界のシンクタンクの長を招いて「シンクタンクを日本に」というワールド・シンクタンク・フォーラムを開催しました。しかし、その成果は残念ながら得られず、失敗に終わりました。

ペンシルバニア大学のジェームズ・マクガン教授による、世界のシンクタンク・ランキング調査によれば、日本には100余りのシンクタンクがあるとされています。が、果たしてNPOシンクタンクとして、その独立性と政策研究の質量、そして影響力において十分なものかは、検証の必要があると考えます。私は今も、確固として十分な規模と優れた政策アナリストを持つ、独立シンクタンクが5つは必要だと思っています。

70才からのNPO:反デモクラシーということ

私は1944 年の生まれですから、2019年秋には75才になります。自分が75才になることがあるなんて考えてもみませんでした。巡り巡って、長い米国生活や国際別居も経て、ここで最後とするかなと思って終の棲家として選んだ街は、県内でも全国でももっとも高齢化率の高い高齢化先進地区です(2016年35.9%)。海辺近いこの町は、季節になれば若者でにぎわいますが、日常は老人が杖を手にゆっくりと歩むばかりです。

でも老人たちの日々は、明日の我が身です。バス停の前の2軒の商店、八百屋さんとセブンイレブンで食料を買い、ビニール袋を提げて、ゆらゆらと坂道を上り下りしなければなりません。ときどき老人迷子のおしらせが流れています。

そして気づいたことは、いま日本の高齢者は、高度成長期を闘い抜き、社会福祉と医療制度、そして介護法の恩恵を受けて、他の福祉国家と比べて見劣りしない「豊かな老後」を享受しているということです(アメリカと比較してみてください。)もちろん、その恩恵に浴さない高齢者も確かにいます。中産階級の住む、開発されてから40年近くたつ近隣の住宅地では、独り身の老人が助けを求めずに暮らしています。この辺では木造賃貸住宅とか、公営住宅などがないので、貧困の中にいる高齢者はあまり見えません。全体として戦後70年を見れば、今の高齢者は豊かな暮らしを営んでいるといえるでしょう。そしてその費用は、膨大な国家の負債となって、ここに住んでいない若い世代、次世代、次々世代が負うということになっているのです。

この70才以上が投票権をまじめに行使することによって、政策は高齢者優遇に傾斜します。若い世代は選挙への失望もあり、投票所に行く時間もなくて、デモクラシーへの関心は減少します。若い世代の政治参加を強化しなければ、日本の社会の沈没は免れません。

高齢者に媚びを売って、票を獲得しようとする政治家を選ばないことです。

社会保障政策が長期にわたって高齢者に甘く、若い世代に負担を増やすものであれば、それをやめさせることです。高齢社会において、高齢者がやるべきことは、まずは若者に頼らずに、そして税金を使わずに、高齢者相互の支えあい、高齢者自身の健康を保持し、医療にかからないという責任を果たすことです。70歳からのNPOは、まさに独立シンクタンクでもありますが、身を切る改革、反シルバー・デモクラシーに取り組まなくてはなりません。自分たちの権利を縮小してでも、若い世代がしっかり生きられるように、助けることです。それが70才からの高齢者の責任です。

参考文献「上野真城子関西学院大学総合政策学部最終講義」The Journal of Policy Studies, No.43, March 2013.「日本の予算議論と政策決定に欠けるもの」、The Journal of Policy Studies, No.41. July 2012. 「政策を学ぶ人に:ロバート・S・マクナマラの死去に寄せて」、The Journal of Policy Studies, No32. July 2009. 「市民よ、私達が問われている」、雑誌「世界」1994年2月号。 日本経済新聞「経済教室」(米に根づく民間社会福祉組織02/17/1990、シンクタンク:日本にも非営利・独立型を05/05/1992、日本に政策形成産業必要02/01/1997、独立シンクタンク今こそ必要11/01/1995)、朝日新聞「論壇」(豊かな市民大国への整備を10/23/1992等。一部はwww.ucrca.orgに掲載。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です