ロンドン・コロナ漂流記
遠くの話
初めてこの新型肺炎ウィルスのことを聞いたのは2020年1月半ば、CNNの国際ニュースでした。夫の仕事で昨年3月から住んでいるイギリスのニュースは月末に迫ったEU離脱、ヘンリー王子夫妻の高位王族離脱、アメリカとイランの紛争、たまにカルロス・ゴーンの日本脱出などの話題で年初から忙しく、遠い中国の謎の肺炎ウィルスは、もっぱら東京の家族や友人との電話やチャットのなかで聞く話でした。
そんななか、1月下旬、夫が東京に出張することになりました。私としては心配だったのですが、はずせない仕事ということで3週間の予定で出かけていきました。ところが2月の初め、勤務先のロンドンの会社からウィルス感染が拡大している日本への出張禁止令が出たのです。夫の場合はもう東京に行ってしまっているので仕方ないが、ロンドンに戻ったらしばらくは自宅待機になるということでした。
この頃のイギリス人は、アジア方面から聞こえてくる得体のしれないウィルスを、遠くの怖い話としてしか受け止めていませんでした。私もその3週間、友人と映画に行ったり、美術館の文化講座に行ったりといつもと全く変わらない日々を過ごしていました。ただ、毎日のように東京の家族と連絡をとっていたので、日本では感染者が増え続け社会不安から買い占め騒ぎが起きていること、ほとんどの人が外ではマスクをかけて気をつけていること、外出制限が出るかもしれないということなどを聞いて気をもんでいました。でも、まもなく東京へ帰るという友人は、東京の様子を伝えて気をつけてと言う私に、騒ぎ過ぎだと言っていました。
イギリス国内では2月初め、50代の男性がシンガポール出張中に感染したことを知らずにフランスのスキーリゾートなどを訪れ、イギリス、フランスなどにあわせて11人の感染者を出し、スーパー・スプレッダーと言われて話題になりました。しかし彼は自らマスコミに素性を明らかにし調査にも協力したので、深刻な患者が出なかったこともあって、むしろ気の毒な人のように受け取られました。トップニュースは2週続けてイギリスを襲った嵐による各地の洪水の被害でした。
夫は予定通り、2月半ばにイギリスへ帰国しました。空港ではなんの質問も検査もなく、会社からも症状が無ければ普通に出社すべしということになりいささか拍子抜けしました。実は私達は3月半ばから日本への一時帰国を予定していました。ところがこの頃日本から聞こえて来るのは、感染の広がりや死者も出て来たこと、クルーズ船でも死者が出たこと、韓国での感染爆発などなど。2人とも決して若くはないことを考えると帰国を躊躇するニュースばかりでした。会社の日本への出張禁止もでたまま、今帰国したらロンドンに戻れなくなる恐れもあると言われ、家族も含めてプライベートな帰国も見合わせるようにという指示も出ていました。
欧州感染の始まり
そんなイギリスの空気が変わり始めたのは、2月の終わり頃からでした。イギリスの学校は2月の第3週の1週間、ハーフタームというお休みになります。この時期、雪のないイギリスの人々には、フランスよりも少し安い北イタリアのスキーリゾートが人気です。そしてちょうどこの頃、北イタリアでコロナウィルスの感染者が増え始めていたのです。2月末、休暇帰りの人々からの感染がイギリスでも増え始めました。夫の会社でもイタリアへスキーに行った同僚の子供が熱をだし、結果が出るまで一家で自宅待機していました(後に陰性が判明)。イギリスは水際でとめられる瀬戸際ではないかとも言われていました。
なぜイタリアで感染が広まったのかの原因としては、近年、イタリアと中国の経済関係が密接だったこと、春節の休暇の中国人観光客や、メイド・イン・イタリーの担い手である中国人労働者が里帰り後イタリアに帰ってきたためなどいろいろなことが言われていました。いずれにしてもこの突然の欧州への広がりは、イギリスにとってはいきなり身近に迫ってきた驚きでした。
そのイタリア、ベニスに私達は5月に旅行を計画していました。2年ほど前から延び延びになっていた旅行で今度こそはと思っていたのですが、3月の帰国とともに悩ましい事態になってきました。そんなおり、ベニスで予約しているアパートの会社から長文のメールが届きました。そこには、今、イタリアについてマスコミで報じられていることは事実とはほど遠く、ベニスはいつもと変わらず、今は閉まっている学校や施設もじきに再開する、人々は毎晩賑やかに出歩いているし、なによりもイタリアの医療制度は世界的にもベストのひとつなのですべてはコントロールされているので安心して予定通り来てほしい、と書かれていました。イタリアのマスコミはわざわざサンマルコ広場から人々を追い出し、俳優を雇ってインタビューをでっち上げているとも。
結局、私達は東京の家族からの強い勧めもあって、日本への帰国をしばらく先に延ばすことにしました。日本では全国で学校が休校になり、母のいる老人施設では面会禁止になり、WHOは今後が懸念される国として韓国、イラン、イタリアと日本をリストしていました。周囲の人達が一様によかった、安心したと言ってくれたのが記憶に残っています。ところがこの決断を後でやや後悔することになります。私はこの頃の家族とのやりとりで、イギリスが慌て始めていると書いています。3月2日に前日の感染者が1日で13人増えて36人になったため、ジョンソン首相が会見を開きましたが、丁寧な手洗い、うがいを呼びかけるというレベル。完備した保険制度と世界最高水準の医学のイギリス国民は世界で最も幸せだと誇らしげに語っていました。ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)を保て、高齢者や基礎疾患のある人はセルフ・ アイソレーション(自主隔離)せよなどといわれはじめたのはこの頃でした。
要請から規制へーロックダウン
3月初旬、感染者が出たためアメリカに入港を拒否されサンフランシスコ沖にいるクルーズ船に140人のイギリス人が乗っていることが報じられます。欧州、アメリカでの感染が急激に拡大し、中国を超えつつありました。首相の外出自粛要請にも力が入ってきました。ロンドン市内の大学院に通う姪からは、中国人学生が暴行されましたという話を聞きました。3月10日、イギリスの感染者は319人、死者はまだごく少数でした。この頃から夫も在宅勤務になり、大学院の対面授業がなくなった姪が、寮からわが家に引っ越して来ました。徐々に外出自粛が厳しくなってきたものの、わが家はちょっとにぎやかになり、やはり帰国を延ばしてよかったなどと思っていました。
ところが3月16日の週明けからイギリス国内の死者が急増し、17日の発表で1日50人を超えると一気に増え始めました。それまでは批判されながらも、なるべく市民生活を制限せずに緩やかに集団免疫をつくると言っていたジョンソン首相も、このまま何もしなければ国内の死者が25万人にのぼるという専門機関の予測で方針を転換せざるを得なくなります。
3月18日には、20日金曜日午後からの休校が発表され、家にいること、人と会わないこと、生活必需品、薬局以外の商店の休業、在宅勤務が要請されました。飲食店には金曜朝、翌日からの休業の指示がでました。22日はイギリスでは母の日でしたが、今年は会いに行かないことが最大のプレゼントだと首相自らが国民に語りかけました。
翌21日土曜日の午後、私は夫と車で家から少し離れた個人経営のデリに向かいました。街は確かにいつもより大分静かでした。ところがハイド・パークとケンジントン・ガーデンの真ん中を通る道路に入ったところ、そこはいつも以上ににぎわっていたのです。当然の成り行きでした。春の初めの土曜日の午後、めずらしく天気がよかったらイギリス人は公園に散歩に行きます。レストランもパブもジムも美術館も劇場も映画館も全部閉まっていたらなおさらのこと。
23日月曜日、ジョンソン首相の『これはもうアドバイスではない』という悲壮な会見がありました。とにかく自宅に留まること、人に会わないこと、日用品の買い物の頻度も極力少なく、一日一回の運動の為の外出はひとりか同居家族とのみ、2人以上で集まらない、出勤もどうして必要な場合のみ。警官や軍隊も動員され、違反者には罰金が科されることに。バスや地下鉄の間引き運転が始まり、駅も一部閉鎖されました。政府の指示によるロックダウンに入ったのです。ロンドンの街から人が消えました。チャールズ皇太子も感染しました。対照的にこの頃、日本は三連休。桜も咲き始めた行楽地の人出のニュースを見て、日本はもう大丈夫なのかなと思いました。
帰国
3月24日、東京の親しい友人から帰国を強く勧めるメールが届きました。彼は大手金融機関で危機管理などを扱う部門の責任者で最も信頼のおける情報源でした。それまで内心では帰国タイミングを外したと思っていた私達は、この一通のメールで帰国を決めました。姪も留学生仲間が次々に帰国していると話していたところだったのですぐに同意してくれました。即、会社に連絡をとり、29日発、30日着の便での帰国が決まりました。羽田空港から自宅に帰るのに公共交通機関は使えないので、姪の両親が迎えに来てくれることになりました。
25日、東京オリンピックの延期が発表されます。27日、イギリスの死者は一日100人を超え、ジョンソン首相自身の感染も公表されました。ロンドン市内に新たに4000人収容のコロナ専門病院の建設中でした。オリンピックの延期が決まった頃から、日本の感染者数がまた増え始めているのは気になっていました。ネット上で東京がロックダウンされるという噂も飛び交っていました。しかし、毎日何百人という死者が出ているイギリスに住んでいる身からすると、日本はずっと安全に思えました。
前日土曜日、ヒースロー空港は混雑していたそうですが、29日夕方は閑散としていました。免税品店も飲食店も全て閉鎖、数少ない搭乗客が間隔をあけてポツポツと座っていました。各航空会社のラウンジも閉まっていて、唯一開いていたキャセイ航空のラウンジも二日後には閉まるということでした。飛行機も乗客は20-30人くらい。
私達には身内の自家用車で迎えがあり自宅で待機することになっていたので、羽田空港でも並ぶこともなく簡単な質問を受け申告書にサインしただけで入国できました。携帯電話の機内モードを解除し、最初に知ったのは志村けんさんの死でした。翌31日、外務省は4月3日からイギリスを入国制限のレベル2から入国拒否のレベル3に格上げし、日本人帰国者を含む全入国者に検査を義務付けました。
今日は4月8日、私の自宅待機期間は半分をすぎました。昨夜、東京に緊急事態宣言が出ました。振り返ってみると刻々状況が変わる中で翻弄され続けた3ヶ月間でした。そのたびにウロウロしていた私達が、今こうして落ち着いて暮らしていられるのは日本、イギリス双方での周囲の方々のご助言、ご助力があってのことと感じます。同時に人も物も情報も、かつてない速さと規模で動きまわる現代社会の負の部分がコロナウイルスによって炙り出されているように見えます。今を生きる人類が、私達ひとりひとりが試されている、そんな感を深くしています。
東京都出身。青山学院大学文学部卒業。総合商社、PR代理店勤務後、夫の転勤に伴いロンドン、ニューヨークに居住。今回のロンドンは二回目。