人生の終い方:アルツハイマー型認知症の母の最期から見えた課題
ユーモアがあって優しかった母、認知症になりたくないと怯えていた母が認知症になり、5年間弟に介護されて、亡くなったのは2018年のこと。86歳だった。母は亡くなる数週間前、突然「ありがとう。洋一、世話になった。ありがとう!」と言った。それまで母の暴言に振り回されていた私たちはびっくりした。弟の献身は母の感謝に値する。一方、私は後悔の塊である。
母の終末期は、弟と私に非常に難しい判断を迫るものだった。ここでは、母の看取りを経験して知り得た認知症の早期発見、治療の難しさ、「延命治療」の定義の難しさについて述べ、そして日本における終末期医療の課題に触れる。
早期発見と治療
新聞を複数契約してしまう、片付けが出来ないなど、おかしい行動が目立ち出始めたのは母が75歳のころ。神戸大学の認知症の権威と言われる教授に診てもらった。「今日は何年何月ですか」「昨晩何を食べましたか」「アメリカの大統領は誰ですか」「100から7を順に引いていってください」などなど、噂に聞いていたとおりの質問をされる。母はゆっくりだが、ほぼ正しく答える。脳のMRTも撮った。下った診断は「年相応の脳機能の低下、認知症は見られず。」
今思うと、明らかな誤診である。今日は何年何月ですかという問いの答えを大幅に外すなら、相当進んだ状態である。早期発見には役に立たない。思い返すと、70歳ころから始まっていた認知症を、5年後でも専門家に発見してもらえなかった。ただ、早期発見したからといって、何ができただろう。母は発症し始めても本は読んだし、数独も楽しんでいたし、家族と会話もしていた。デイケアでは、友人を作り、楽しそうに通っていた。それでも認知症はどんどん進んだ。
介護施設を見学したが、どこもぼうっと宙を見つめる人が目立つ。踏ん切りがつかないまま、弟は介護を続けた。そのうち、母は少しずつ、大声を出すようになった。人がいないと不安になり、昼夜を問わず、大声で人を呼び続ける。怖い、怖いと泣く。何が怖いのか、わからないようであった。バナナが食べたくなると、バナナを食べるまで、バナナ、バナナと大きな声で繰り返した。何か要求が頭に浮かぶと、頭にこびりついてどうしようもなくなり、要求が満たされても、その「要求の気持ち」のみが残ることも多かった。声が外に漏れぬよう、雨戸を締め切った中での介護。ずっと母のそばにいて、手を握ってあげていればいいのだろうが、現実的には無理であった。
要介護3、4、5と上がるにつれ、訪問介護を増やしてもらった。だが、時間は1回1時間、家を不在にすることはできず、弟はつきっきりであった。時々、介護施設にショートステイしたが、大声を出すため苦情が出て、行けなくなった。転倒骨折して入院した際も同様で、四六時中のナースコールに悩まされた病院から、個室への移動と付き添いを懇願された。個室に入っても、弟が仮眠している時に自分でトイレに行こうとして、また転倒骨折*。結局、家族の同意の上、拘禁された。母の不安が増したのは言うまでもない。ケアマネージャーによく言われたことだが、入院という措置は、認知症を悪化させることが多い。母も入院中に不安が激増し、妄想まで出てきたため、骨折完治前に緊急退院させた。家に帰ると妄想はすぐに消えたが、不安は残った。
強迫神経症、不安に効く薬はある。ただ、種類が多く、どの薬が合うかの判断は難しい上、持病を抱える老人に効く薬は少なく、母に投与できた薬も、副作用として無気力を起こした。ご飯を口に入れても、飲み込む意志すらなくなったため、服用は中止した。そして不安が戻ってきた。
延命治療
母は結局、心臓弁がどんどん狭くなり、呼吸器の装着が必要になった。酸素の摂取レベルがどんどん落ち、私と弟は担当医に呼ばれた。「心臓弁の手術をすれば50%の確率で、あと10ヶ月ほど生きられるでしょう。しなければ、あと2週間。どうしますか。手術するならば明日。準備が必要なので、今20分で決めてもらいたい。」弟と私は別室で相談した。
呼吸器につながれた母を見て、「延命治療なんか要らん。認知症になったら、人に迷惑をかける前に早う死にたい」と言っていた母を思い出した。母さんは手術なんかやめてほしいだろう、でも手術をしなければ確実に、2週間も真綿で首を絞められるような苦しみを味わいつつ死んでしまう、でも手術が成功したとして10ヶ月後どのように亡くなるの?再び苦しんで逝くの?私の頭はパニックした。一方、弟は言った。あと10ヶ月僕が面倒を見てやる、手術をお願いしよう。手術中に亡くなる可能性を了承するという1行にサインをして、手術に踏み切った。
実はその背景には、少し前の母の「うな丼が食べたい」という言葉があった。弟は「手術すれば、うな丼を食べさせてあげられますよ」という医者の言葉に賭けたのだ。果たして、86歳の手術は成功し、2週間後、母はうな丼を食べた。そして、その1ヶ月後の朝、ベッドで冷たくなっていた。前日に食欲を無くしただけだった。医者がいったように10ヶ月も生きなかったが、痛みが少ない死を迎えられたのは手術のおかげ、正解だったと言えよう。手術を選んでいなければ、母が苦しんで亡くなる姿を、私も弟も一生忘れられなかったことだろう。
日本の終末期医療の課題
残念ながら、我が母の場合、認知症の早期発見も治療も実感できなかった。一方、入院や入所が認知症の症状を悪化させ、退院と退所、すなわち帰宅が認知症を回復させる経験はした。生活費に困らなかった弟に、完全介護してもらえた母は幸せであった。
介護を通じ知り得たのは、日本のケアが絶望的に人手不足であることだ。設備の整ったピカピカの大病院でも、ICUを除き、おむつを変えるのは定期的。午後1時のおむつ替えの前の昼食は、隣のベッドから排泄物の匂いがすることは珍しくなかった。保険診療での訪問看護制度は素晴らしいが、訪問の時間は短い。民間の派遣会社を通じて介護者を探すと、1時間4000円、1日10時間で4万円であった。認知症を患う患者は増える一方であるから、看護介護の人員増強は待った無しの課題である。
自分には延命措置は要らないと、多くの人は口にする。だが延命措置とは何なのか?医療行為は、ある意味すべて延命措置である。高齢者の臨終の心臓マッサージは、拒んでも後悔は残らないだろう。では、栄養補給、水分補給、酸素吸入はどうだろう。補給しないと苦しいですよと医師に言われたら?延命措置と痛みの緩和の線引きは難しい。
我が母の86歳の延命手術は、痛みのない死につながった。一方、夫の母の末期の措置は微妙であった。私は親族代表として「栄養補給、水分補給の点滴」の許可書にサインをした。苦しみの緩和という医師の言葉を信じたのだが、今思えば、単なる数日間の延命で、楽になったようには見えなかった。尊厳死協会に入っていた義母が望む措置だったのだろうか。義母は認知症ではなかったが、会話はできない状態になっていた。私のサインは義母の辛い時間を延ばしてしまったのではないかという思いが、いつまでも消えない。
臨終の痛みの緩和は難しいと医者の友人は言う。モルヒネ等の量や回数の調整は大変難しく、誤って早い死を招く可能性もあり、自分はいくら家族に頼まれたとしても、処方はしたくない、怖くてできないのが本音だという。実際、医者を訴える訴訟はよく起きている。私はカリフォルニア在住時、尊厳死を選んだ複数の家族から話を聞いた。痛み無く、尊厳を保ったまま家族を見送った話は、ほんとうに羨ましかった。認知症であってもなくても、終末期に家族はさまざまな決定を求められる。「私に延命治療は不要」と言い残したり書き残したりするだけでは、不十分である。日本でも、尊厳を保ったまま、痛みの少ない人生の終わり方を自分で選べるよう、一人一人が今から自分のこととして真剣に考え、法整備の取り組みに関わるべきと強く思う。
*入院中の事故については病院と和解した。絶対的な人手不足を目の当たりにしていたので、病院の責任を追求し続けることはしなかった。
カリフォルニア大学言語学修士。日本語教師養成科講師。夫の転勤に伴い、北京、ジュネーブ、DC、テヘラン、LA、ジャカルタなどに居住。2023年1月よりローマ在住。