お母さん、ありがとう!
2013年の10月、秋晴れの日の正午少し前、母は入居していた施設の食堂で、友人と話しながら昼食を待っていた。友人の「原田さん、原田さん!」という問いかけに返事をしない母のところに、施設の人が飛んできた。友人の話を聞いている間に、ふっと目を閉じて逝ってしまった。享年92歳であった。勿論、私たち姉妹4人は誰もその場にはいなかったが、母の旅立つ瞬間を見たという施設の方が詳細に教えて下さった。母はにこやかに会話をしている最中、何を思ったであろうか。部屋でたった一人であったわけではなく、友人たちに囲まれ、いつもの窓側の席から大好きな庭の花を眺めていたのあろう。
母の人生
大正9年12月生まれの母は、戦前、戦中、戦後を生き抜いた強い女性であった。家庭の事情や戦争で、青春時代を楽しむことのなかった世代でもある。祖父(母の父)は、乳母に育てられ、最高学府の教育を受けたにも拘わらず生涯仕事をしたことのない気位の高い人であった。結局、代々からの資産を食いつぶし、次女の母の適齢期には苦しい生活を強いられたようだ。母は弟、妹の面倒をみながら、一家の稼ぎ手として夢中で働いたと、遠いところを見るような目で話してくれたことがある。
そして、不思議な出会いを目を輝かせて話してくれた。戦後、疎開先から実家がある愛知県豊橋市の駅にたどり着いた時、空襲や艦砲射撃で焼け野原となった地獄のような光景の中に、輝く光を見たと言うのだ。母は家族の安否も分からない状況で藁をも掴む思いであったが、その光に引き込まれるようにひたすら歩いた。行き着いた場所は教会であった。疲労困憊した母を受け入れてくれた司祭夫妻は、正に母の恩人であった。この日を境に、母は敬虔なクリスチャンになった。未来の夫となった私の父とも教会を通して出会い、私たち姉妹も教会で洗礼を受けた。母があの日クリスチャンにならなければ、私も教会の仕事をしていた夫と出会うことはなく、私はワシントンで35年も暮らすことはなかったであろう。
認知症を患って
家族、親族との関係においても、教会の活動を通しても、母は真にクリスチャンとしての生き方を通した人であった。認知症を患って10年近く経っていたが、92歳の母の告別式には多くの友人や教会の信者さん達が参祷してくれた。母に世話になったという人たちは、母のことを、「賢くて強い女性だった」と口をそろえて言っていた。皆、母が認知症を患う前の話を共有してくれた。親戚、友人には、認知症を発症して違う人格になった母の思い出は殆どない。
認知症を患っていた10年は彼女の人生の中で何であったのか。どんどん記憶が不確かになっていく状況下、母は「私、馬鹿になっていくみたい」と不安そうに呟いた。薄暗い世界に足を踏み入れて、どんどん暗黒の世界に入っていくような怖れは、どんなに辛かっただろう。そんな中でも、日によって、また予告なく突然、記憶が戻って彼女の顔が輝くこともあった。
私たち家族が父の最後の誕生日にワシントンから駆け付けた時、誕生日ケーキを前に皆で「主の祈り」を日本語で暗唱した。お祈りの言葉を忘れてつかえてしまった私たちに代わり、すらすら暗唱したのは母だけであった。その時は彼女の目に輝きが戻った。しかし、どんな光が差しても、また暗闇に戻っていく。彼女の最後の3年余は、暗闇の中で生きる覚悟を決めたように平穏な顔をしていた。不思議と最後まで娘、孫の名前を忘れることはなく、母親らしい愛情を感じさせた。
家族の対応
尊敬していた人が病気で変わっていってしまう、その過程を見るのは想像以上に苦しい。その4年前に他界した父も、私たち4人姉妹も、時に母との良い思い出を分かち合いながら、別人のようになっていく彼女を受け入れようとした。私は休暇を使って年に3~4回は帰国していたが、毎週のように母を訪問してくれた姉二人や姪は、もっと辛い思いをしたに違いない。誰よりも、自ら癌を患っているのも気づかずに、亡くなる直前まで母と二人で暮らしていた父の気持ちは計り知れない。
認知症の初期段階の兆候には、被害妄想がある。ある時、母が姉に、父がヘルパーさんと何か関係があるのではないかと疑惑を告白した。それに対して、姉妹揃って父に目くじら立て「いい歳してみっともない」とお説教したことがある。父は黙って聞いて、「もういい!」と怒った。父は九州男児で、海軍兵学校出の軍人であった。縦のものを横にもしないというのは父のことと、子供の頃から思っていた。マイペースで、面倒を見るというタイプでは全くなかった。しかし、そんな父が、人格が変わっていく母の状態に愚痴をこぼすこともなく、母に寄り添っていた。それは、あたかもこれまでかけた苦労の償いをしているようにもみえた。
認知症に罹った人が苦しく、辛いのは勿論であるが、家族や友人などの周囲の人にとっても同じである。私たち4人姉妹にとっては、強くて賢い母は非常に大きな存在であった。6人家族、女性5人の長であり、母がいてこそ「家」であった。仮に母が突然逝ってしまったら、私たちはどんな思いをしたであろう。母の変化を見ることは辛いことではあったが、娘の義務であり、感謝の気持ちを表す機会であると思った。しかし、末っ子の妹は、両親に一番甘やかされていたと思うが(姉のひがみ?)、認知症の過程で人が変わっている母を受け入れることができず、ほとんど訪問しなかった。あたかもその存在すら否定しているようであったが、本当は人格の変わった母と向き合うことが怖かったのだと思う。
認知症の患者とどの様に付き合っていくか、どのように接していくかは、自分自身が生きていく答えを見出すことであると思う。自分自身が認知症を患ったら、周囲の人にそう思ってもらいたい。私は母の告別式で棺の中で眠っているかのような母に向かって、「苦しい10年だったでしょう。私たちにご恩返しと準備の時間をくれたのだと思います。どうぞ安らかに眠ってください。ありがとう!」と呼びかけた。母の偉大さも然ることながら、不本意であったに違いない最後の10年を、私たちの為に生きて、準備の時間をくれたことに対して、感謝の気持ちでいっぱいである。
愛知県出身。在米40年。コロナ禍の2020年3月に日系企業を退職し、現在コンサルタント業・ボランティアに従事。現在、日本やヨーロッパの歴史を訪ねる旅が趣味。