ウクライナ侵攻の文化・芸術面への影響
武力紛争が起きると文化財が破壊されるのは大昔からの常だ。文化遺産は特定の民族がどう生きてきたかの証拠、アイデンティティーだからだ。近年でもアフガニスタン・バーミヤン遺跡の大仏、シリアでパルミラ遺跡のベル神殿が破壊されたことは記憶に新しい。また樊書も行われてきた。
今回のロシアのウクライナ侵攻でも、「ウクライナには固有の文化、言語、伝統はなく、ロシア圏である」というプーチン大統領の主張に基づき、ロシア軍はウクライナ固有の文化財を意図的に破壊してきた。東部マリウポリの3文化施設からは2000点以上の美術品を略奪。メリトポリの博物館からは2300年以上前のきわめて貴重なスキタイ人の金細工のコレクションを略奪した。
一方、ウクライナ側は文化遺産を守るべく、美術館のスタッフがコレクションを安全な場所に移動したり、オデッサの歌劇場周辺にはバリケードが作られた。激戦地となったハルキウでは、文学博物館前にある国民的詩人で民族復興を主導したタラス・シェフチェンコの像などはボランティアが土嚢で保護を試みたという。ハルキウ周辺では多数の文化財が損傷したそうだ。その中には第二次世界大戦中、ユダヤ人と戦争捕虜約1万6000人がナチスによって殺害された場所に建てられたホロコースト記念碑も含まれた。ウクライナ最古のオデッサ歌劇場(1887年設立)周辺にはバリケードが作られた。
スミソニアン協会の文化財保護活動
スミソニアン協会はウクライナの文化財保護活動を支援している。Smithsonian Cultural Rescue Initiative (SCRI) は、2010年のハイチ大地震後の活動から始まり、イラク、アフガニスタンなどで活動してきた。バージニア自然史博物館とパートナーシップを組み、Cultural Heritage Monitoring Lab (CHML) として、米陸軍とも協力しつつ活動している。また国務省のCultural Heritage Coordinating Committeeを通じて、ウクライナのパートナーとともに文化財保護活動を行っている。
ウクライナでCHMLがモニターしているのは26,816の文化財。これには優先度はつけていない。それを決めるのは、ウクライナ国民であるという立場からだ。
その後、紛争が続き、被害がさらに拡大しているが、CHMLは衛星写真から博物館、歴史的建造物、図書館、遺跡などをマーキングし、破壊度などもモニターし続けている。しかし、なんといっても地上からの情報も重要なので、ウクライナのソーシャルメディアなどから現地の様子を知り、状況を把握している。そのためにウクライナ語、またはロシア語を理解し、英訳できるボランティアが必要だと知った。早速、アメリカに在住する前はリヴィウの博物館に勤務していた友人、元駐ウクライナ米国大使館に勤務していた外交官など数人に声をかけてみたところ、協力を得ることができた。ウクライナに残されている親族、友人、知人などの安否を気遣う日々を過ごす中、多少でもウクライナの文化保護に貢献することで役立っているという気持ちになるのではないかと察する。
アーティストたちの反応
ウクライナ侵攻に対するロシア出身アーティストたちと、彼らが活動してきた西側諸国の劇場の反応もまちまちだった。例えばプーチン大統領に近い指揮者ワレリー・ゲルギエフ。彼は世界中の劇場で活躍してきたが、そのギャラだけで可能とは思えない多数の豪邸をイタリアなどに所有していた。侵攻後、彼は国外でのポジションをほぼすべて失った。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューヨーク公演から降板、ミラノ・スカラ座も彼の降板を要求し、スイスの音楽祭の音楽監督やミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者の職も解任された。一方、プーチン大統領は同氏にこれまで委任してきたマリインスキー劇場だけでなく、ボリショイ劇場も任せる意向を示している。
また世界一のディーバ、ロシア出身のアンナ・ネトレプコ(ウィーン在住)は過去何度もNYメトロポリタン歌劇場(MET)のシーズンを開幕してきたソプラノだが、2014年にロシア分離派が支配するドネツクの歌劇場に寄付をしたり、クリミア併合後も、プーチン支持を公言してきた。そして今回はプーチン批判を拒否したため、ピーター・ゲルブMET総裁は彼女の出演予定をキャンセル。5月に上演された歌劇「トゥ―ランドット」で彼女の代役を務めたのは、ウクライナ出身のリュドミラ・モナスティルスカで、彼女はカーテンコールでウクライナ国旗をまとって登場し、大喝采を浴びた。
その後、ネトレプコはウクライナ侵攻を批判したため、逆にロシア国内で批判され、ロシアでの出演予定をキャンセルされるという踏んだり蹴ったりの目にあっている。
その他のロシアの歌手たちもプーチン支持を公言した場合、METは彼らの出演予定をキャンセル。一方、ロシア在住者についてはロシアでの活動もあり、家族もいることから公的に批判できないため、侵攻への支持を表明していなければ出演継続といった対応をしている。
これに対し、国外に移住したロシア出身アーティストたちは多くが、プーチンを批判している。例えばロンドン在住のエフゲニー・キーシンはロシアのアブハジア、チェチェン、クリミア侵攻に対して、西側諸国が口先だけの批判にとどめていたことを問題視している。キーシンは今年5月、ニューヨークのカーネギーホールで行われたウクライナ支援コンサートでは、映画「シンドラーのリスト」のテーマ曲とショパンのスケルツォを演奏した。ドイツで活動するウクライナ系ロシア人ウラディーミル・ユロフスキ(18歳までモスクワ在住)は、今回のウクライナ侵攻直後のコンサートでは最初にウクライナ国歌を演奏したり、チャイコフスキーの序曲『1812年』(ナポレオン率いるフランス軍によるロシア遠征で、ロシア軍が仏軍を撃退する様子を表した曲)は、今は不適切であるとして演目を変更するなどの対応をした。
また、ウクライナ侵攻後、ロシアから亡命したアーティストもいる。例えばボリショイ・バレエ団のプリマバレリーナだったオリガ・スミルノワ。オランダ国立バレエ団に迎えられた彼女は、残された仲間たちの将来を憂いている。彼女以外にも、ボリショイなどで活躍していた他国出身のプリンシパル・ダンサーたちも何事もなかったように踊り続けることはできないと退団し、母国に戻った。
侵攻時、ボリショイ・バレエで新作品を制作中だった振付師アレクセイ・ラトマンスキー氏は、「プーチンはこの戦争をすぐに止めなければならない」と軍事侵攻に抗議し、直ちにモスクワを離れ、ボリショイに対し、自身が手掛けた作品の上演を認めない考えを表明している(同氏の家族はキーウ在住で、バレリーナの妻はウクライナ人)。
1974年に米国に亡命した有名なバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフは、ウクライナ侵攻に反対する亡命中の文化人に支えられたチャリティー・プロジェクト “True Russia”を設立し、GoFundMe募金でウクライナ難民を支援している。また、アーティストやアスリート、科学者たちは侵攻に反対するかどうかを自分で選択する必要があるが、個人的なリスク、家族に害が及ぶ可能性があることから、彼らへの制裁を行わないように呼びかけている。
文化芸術活動の意味
さて、私の地元のワシントン・ナショナル・オペラでは、オペラ開幕前に総裁が楽団員にウクライナ出身者が数名いることを説明し、ウクライナ国歌演奏から始まった。
ウクライナ出身のミュージシャン75人が形成したウクライナ・フリーダム・オーケストラが欧米ツアーの一環として、リンカーン・センターやケネディー・センターで8月に演奏することになっている。ウクライナ文化省も男性ミュージシャンの国外ツアーを許可したという。指揮者はケリー=リン・ウィルソンというウクライナ人の祖母を持つカナダ人だが、MET総裁の妻でもあり、このツアーは総裁の尽力もあり成立したそうだ。
文化芸術活動と政治は無関係だと考えている人も多いかも知れないが、切っても切れないのが両者の関係なのだと思う。ロシアは芸術をソフトパワーとして利用してきたのだから。私の耳には、3月以降、聴く機会が多かったウクライナ国歌「ウクライナは滅びず」がすっかり沁みついている。1860年代に作詞作曲され、ロシア革命が起きた1917年に独立宣言したウクライナ民族主義者が国歌に採用し、その後ソ連から独立後1992年に国歌として復活したそうだが、とても覚えやすいメロディーである。
ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず、 若き兄弟たちよ、我らに運命はいまだ微笑むだろう 我らが敵は日の前の露のごとく亡びるだろう 兄弟たちよ、我らは我らの地を治めよう 我らは自由のために魂と身体を捧げ、 兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう
ウクライナ国民が平和に国歌斉唱できるようになる日が待ち遠しい。
東京出身。88年より米ワシントンDC在住。ソニー本社国際通商業務室、法務部に勤務後、1990年、米ジョージタウン大学外交学部で国際関係修士号取得。公共政策専門チャンネルC-SPANの 日本向け番組制作を経て、現在、ワシントン在住のジャーナリストとして活動中。著書に『オバマ政治を採点する』(第二部インターネット・フリーダム)(日本評論社、2010年10月)、『Xavier’s Legacies: Catholicism in Modern Japanese Culture, Chapter 5 Kanayama Masahide: Catholicism and Mid-Twentieth-Century Japanese Diplomacy』(University of British Columbia Press、2011年3月)、『メトロポリタン・オペラのすべて』(音楽之友社、2011年6月)がある。
興味深い様々な情報をありがとうございます。プーチン大統領にはグルギエフ氏にマリインスキー劇場だけでなく、ボリショイ劇場も任せる意向があるのですか。いくら世界的指揮者でも、ウクライナ侵略を批判しようとはしないグルギエフ氏が西欧各国でのボイコットされるのは当然に思えます。ところが日本では最近も指揮をしていると聞きました。日本は興行優先なのでしょうか、それともいまさらキャンセルできなかったのでしょうか。芸術と政治を混ぜないという立場も分からないこともないですが、それにしても、と思ってしまいます。