藤田真央「指先から旅をする」

藤田真央「指先から旅をする」(文芸春秋)

藤田真央「指先から旅をする」(文芸春秋)

これほど楽しく、学びに満ちて、世界が広がる本は久しぶりだ。「Amazon第1位 芸術家・指揮者・楽器の本」の理由がわかる。本の帯には「20カ国、100都市で大喝采」と印刷されている。当書は、音楽界の巨匠と共にした感動、学び、そして希望が、とてつもなく清らかな心を持つ若手新進ピアニストの目を通して綴られている。色彩豊かなさまざまなモチーフが自由に舞うタペストリーを観ているかのようだ。お茶目な遊びごころも見え隠れする。読者は、彼と彼が共演する世界のマエストロたちと時空を共にしたような錯覚に陥る。そして、感謝と希望がどこからともなく湧いている。

何年前だろう。初めてピアニスト藤田真央(ふじた・まお)の名前を聞いたのは、中高6年間を共に過ごした親友からだった。ピアニストとして活躍し始めた彼女の甥っ子のコンサートへのお誘いだったと思う。そのピアニストが真央さんだった。真央さんは2017年、18歳でクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール優勝。2019年チャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞して、その後は審査員や聴衆から熱狂的に支持を集めて世界的に注目されている。2022年(モーツァルト:ピアノソナタ全集)をリリースし、オーバス・クラシック賞2023にて「Young Artist of the Year」に選出された。

「世界を綴る」

欧米各地のさまざまなコンサートホールで、多くのマエストロたちとステージを共にする描写は臨場感たっぷりだ。きらびやかな装飾を誇るミラノのスカラ座、赤絨毯の大階段を降りてピアノに向かうアムステルダムのコンセルトヘボウ ホール、ラフマニノフが弾いたというウィーンのコンツェルトハウスなど、真央さんは名門ホールでの夢のような演奏を体験した。室内装飾やホールの造り、自分とピアノの相性、演奏曲とホールの特徴から音を作る工夫、そして指揮者とのやりとりなど、まるで生放送を観ているようだ。

指揮者、大野和士氏とシューマンのコンツェルトを演奏した際には、ロマンチックに弾かれがちなシューマンだが「もっとtragisch – 悲劇的に」という強烈とも言える大野氏の提案を受けて、真央さんの中にいろいろな発想やアイディアが生まれた。演奏中は指揮者、コンサートマスター、楽団そしてピアニストの間に常に無言の駆け引きが行われていて、最適な音を見抜いて弾く。ピアニストがオーケストラを盛り上げたり、オーケストラがピアノの表現を支えたり、両者の呼吸に緊張感のある関係を保つことができた演奏だったと回想している。

カーネギーホールでのソロリサイタルデビューには、私も駆けつけた。満席、スタンディングオーベーションで鳴り止まぬ拍手の演奏だったが、実は観客にはわからない苦労と工夫があったことをこの本で知った。納得のいくリハーサルを終えて、本番で第一音を出した時にリハーサルの時とは違う違和感を感じたそうだ。この日の天候は雨でホールが満員だったせいで、音の響きが完全に吸収されてしまったらしい。真央さんは即座に調整を施した。モーツァルト・ソナタを演奏したのだが「モーツァルトのように常に生が宿っているような音楽からかけ離れてしまう懸念がある」と思い、「全ての音に意味を持たせ、いくらかペダルを使い、テンポを少し落とし、弾き飛ばさないように注意した」そうだ。とにかくページをめくるのが楽しい。

何と言っても圧巻は、2023年に開催されたヴェルビエ音楽祭の様子だ。スイスのリゾート地で夏に開催されるこの音楽祭は、音楽家なら誰もが憧れるフェスティバルだ。さらにその年は30周年記念も重なって超特別なイベントとなった。真央さんは19歳の時に、創設者のマーティン・エングストロームから招待を受け、アカデミー・スチューデントとしてその音楽祭に参加したことがあった。まさか5年後に自分が演奏者として参加することになるとは夢にも思っていなかったという。

ヴェルビエ音楽祭での、巨匠10人のピアニストによるラフマニノフの前奏曲作品23のリレーは、読んだだけでもゾクゾクする。第一奏者はカントロフ。第二奏者のキーシンに続いて第三奏者が真央さん、そして最後のトリはユジャ・ワンという豪華メンバーだ。リハーサルから本番まで、興奮と緊張に満ちた現場と各ピアニストの挙動が真央節で描かれている。読み終わるのが勿体ないと思うほどワクワクする章だ。

モーツァルト

モーツァルトが節目、節目に現れる。真央さんをクララ・ハスキル国際ピアノコンクールの優勝に導いたのがモーツァルトだった。その演奏を聞いていたマーティン・エングストロームが真央さんをヴェルビエ音楽祭に招待した。さらにモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏をやろうと声をかけたのもマーティンだった。その時真央さんは、本当は全18曲のうち3曲しか弾いたことがなかったのに、「何曲弾いたことがあるのか」という問いに10曲と答えてしまったそうだ。それから一年間、ヴェルビエ音楽祭に向けて必死で残りの15曲のソナタと格闘したという。

本の各所にモーツァルトの魅力が溢れていて、多くの読者はモーツァルト・ファンになると思う。私も本に出てくる作品を探して聞いたりした。モーツァルトの時代は作曲家が自作を弾くことがほとんどで、その場の雰囲気に合わせて即興演奏を披露していたという。「近年は装飾音を入れずに演奏されることも多いようですが、私は作曲当時の慣例に則って、積極的に入れるべきだと考えています」と言っているように、モーツアルトが時には楽譜という土台から離れて弾いていたのであれば、真央さんは先人と繋がるアンテナを使って、遊びごころを持って奏でているに違いない。

知らなかったことだらけなのだが、楽譜には「版」つまりバージョンがあって、それぞれの音や強弱の指定に多少の揺らぎがあるそうだ。楽譜の選定は演奏者にとって、もっとも大切な作業のひとつで、研究が進むと新しい解釈も生まれてくるとのこと。モーツァルトの装飾音も版によって記述されていたり、いなかったりするそうだ。

こだわる

真央さんのこだわりは多岐にわたっている。リサイタルのためのプログラム編成に関しては半端でない。曲の歴史的背景、作曲者の思い、曲の趣や響きなどに個人的想いが加わって、真央マシンの中で統合成熟しプログラムができて行く。ショパンのポロネーズ7曲を通して演奏した際に、ある評論家から苦言を受けた時のエピソードも披露している。その場では反論をしなかったものの、年代順に展示されていたフェルメール展を例に出して、「今回の私のプログラミングは、後世に生きる私たちにしかできない至高の選択であることも確かではないだろうか」としたためている。

食に対するこだわりもなかなかだ。ベルリンを拠点としていて基本的には自炊とのこと。彼の得意とするレパートリーの中でも「ビストロ・マオ」のチャーシュー入りチャーハンは、読者が真似してみたくなるほど詳しく書いてある。日本に戻るとスーツケースいっぱいに食品やお気に入りの調味料を詰め込んで来るそうだ。公演先で好物の食べ物に出会った時や、食べたい物にありつけなかった時の喜怒哀楽も散りばめられている。

一期一会

恩師である東京音楽大学の故野島稔学長からは「一音ずつ丁寧に、大切にしながら音楽を築き上げること」を叩き込まれ、「コンクールのためではなく、己の理想とする音楽を貫きなさい」と教えられた。「私はなるべく毎回、どんな小さなことでもいいから新しい解釈の可能性を探したいし、ベストを尽くしたい。演奏会は一期一会のもので、私の演奏をお届けできるのはこれが最初で最期の機会かもと思うと、とても手を抜けない」と言っている。

今年3月、ロサンゼルスのウォルト・ディズニー・コンサートホールでのデビュー公演があった。LA交響楽団とラフマニノフのピアノ・コンチェルトNo. 2 in C minor, Op. 18を演奏した。真央さんのご両親が日本からいらして、何十年ぶりかで彼のお父さまとの再会も嬉しかった。2025年4月にはワシントンDCのケネディーセンターでのNational Symphony Orchestraとの共演も決定したとのこと。藤田真央はこれからも世界中でたくさんの感動を伝えていくことだろう。

なお、インタビュー・ビデオで、本書に盛り込まれているようなことが話されているので、ご関心のある方は是非、ご視聴していただければと思う。


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