言葉と私

今日の午後こそ原稿を書くぞ!と心に決めて、近所のコーヒーショップの居心地の良さそうなテラス席に腰を下ろした。ぼーっとしていたらたちまち襲ってくる眠気に負けてしまいそうな、気持ちの良い秋の昼下がり。パキッと澄んだ空気の中にもまだほんのりと暖かさがあり、終わりかけの紅葉で色づいた木々を風が揺らすたび、落ち葉が2、3枚はらはらと落ちる。

斜め向こうの席に座っている、同い年ぐらいのカップルがのんびりと会話を交わしている。アラビア語かな。いや、アムハラ語かもしれない。私が住んでいるワシントン郊外の地域には、多くのエチオピア人が暮らしていて、エチオピア人がオーナーを務めるコーヒーショップがたくさんある。そこでは、英語ではない言葉で交わされる会話がたくさん聞こえてくる。意味がわからなくても、知らない言語で交わされる会話を聞くのはとても好きだ。音や抑揚、相槌の打ち方などにどんな特徴があるかなぁと耳を澄ましたり、どんな話をしているんだろうと想像を膨らませてみたりする。彼らの母国には、どんな景色が広がっているんだろうと考えたりもする。

色とりどりの言葉たち

今から9年前、大学院に通うためにワシントンにやってきた頃、私はアムハラ語を聞いたことがなかったと思う。アラビア語も、聞き分けられたかちょっと怪しい。でも、第二言語としての英語(ESOL)の教員免許の取得に向けて、公立学校で授業見学や教育実習をしている時、アメリカに来たばかりの生徒たちが話すいろいろな言葉に触れる機会に恵まれた。中米から来た子たちが話すスペイン語(スペイン人の友だちが話すスペイン語と随分印象が違う)。柔らかい印象があるベトナム語。やっぱり日本語に響きが似ていて、聞くと思わずホッとする韓国語。渡米してから聞き分けられるようになった北京語と広東語。アムハラ語、アラビア語、ヒンディー語、スワヒリ語・・・そして、英語習得が進んできた子たちが使う、クリエイティビティ溢れる「ちゃんぽん」の数々。

言葉や文化について学ぶことが好きな私にとって、日々いろいろな言語に触れることができ、さらに、言語のバリアを超えてお互いコミュニケーションを取ろうと試行錯誤を重ねる人がたくさんいる環境はとてもわくわくするものだ。これは、ワシントンでの日常生活の中でもよく感じることだ。ヨガスタジオで毎週挨拶を交わす清掃員やUberの運転手、レストラン店員から、仕事で出会うさまざまな国からの出張者、政府関係者まで。そして、全米各地から集まってくるアメリカ人の英語も、出身地や文化的背景によって、一瞬外国語か?と思ってしまうほど、全く違う響きを持っていることもある。人口のどの部分を切り取っても、第一言語ではない言葉で一生懸命話している人が多いのもこの地の特徴だ。ワシントンに暮らすアメリカ人たちも、外国語やいろいろな発音の英語に対して比較的慣れているだけでなく、リスペクトを持っている人が多いと感じる(もちろん、そうでない人もいるが)。日本で英語を学ぶ人がよく口にする「発音が悪いから恥ずかしい」という感覚も、もしかしたらここではそこまで感じる暇がないかもしれないと思う。

ふと顔を上げると、さっきのエチオピア人らしきカップルが座っていた席には、アジア人の母娘が座っている。話しているのは北京語だが、ふんわりとした印象がある発音や語尾の伸ばし具合などから、台湾出身かもしれないな、と思う。大学院で出会った台湾出身の親友の発音とそっくりなのだ。

言葉オタクが磨かれた数年間

英語教師をしていた頃、そして大学院で英語教授法を学んでいた時から、私はかなりの「言葉オタク」だったと思う。意味論や社会言語学の授業で教授が話していたことの身の回りの例を見つけては、宝物を見つけたようにわくわくしていたし、教員仲間と、何かの言い回しや、ある言葉や文法の成り立ちについて夢中で話し込んでしまうこともあった。幼い頃に父親の転勤でアメリカやイギリスに住み、常に日本語と英語の二言語の狭間で育った私は、それに悩まされることも多かった分、幼い頃から、言葉の意味や使い方の違い、文章の組み立て方の違い、意味のニュアンスなどに人一倍敏感だったように思う。

そんな私が、過去数年間、人生で初めて教育畑を離れ、バイリンガルリサーチャーとして働くことになった。初めの頃こそ、教室を離れたことの寂しさと、仕事の性質の違いに戸惑うことが多かったが、改めて振り返ってみると、両言語でさまざまなオーディエンス向けに、あらゆるトピックでたくさんの文章を書いてきたこの数年間は、「言葉オタク」の別の側面が大いに磨かれた期間だったと感じる。特に、書くのが好きとは言えなかった日本語の文章を、頭を捻りながら(少なくとも時々は)楽しんで書けるようになったのは、大きな収穫だ。また、今の仕事で必要とされる、英語の文章の意味や雰囲気をなるべく損なわずに日本語に置き換える作業は、正確な翻訳技術と言うよりも、筆者の意図や姿勢、大きなメッセージを掴んで、私の知っている日本語の語彙と表現を総動員して文章にすることが求められる。それがうまくいったと感じるとき、何か別の次元での異文化交流に貢献できたような不思議な達成感がある。

これまでの人生の中で最も多くの時間を文章を書くことに費やす日々の中、日本語と英語それぞれの語彙やことわざ、独特の言い回し、地域性や文化的背景による言葉のバリエーションについてもますます興味が深まった。そんな私が、元ルームメイトのアメリカ人に「絶対に好きそう」と勧められて以来ハマってしまったのが、「A Way with Words」というナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)のラジオ番組兼ポッドキャストだ。ホストを務める辞書編集者で言語学者のグラント・バレット氏と、語源をテーマにした複数の本の著者で、ワシントンポスト紙元記者のマーサ・バーネット氏の二人に、全米(そして時々海外)の言葉オタクたちから、言葉に関する素朴な、時にマニアックな質問が毎週寄せられる。例えば、「子どもの頃、おばあちゃんが使っていたこの言い回しの由来を教えてほしい」、「このスラングが使われ始めたのはいつ、どこからか」といった質問だ。それに対して、まるで知識の泉のようなホストの二人が、痛快なほどにすっきりと疑問を解決してくれる。もう30年以上話している英語について、毎週必ず新たな発見があるのが面白い。移民社会アメリカの歴史や、知らなかったアメリカの地域性に話が及ぶこともあり、散歩や移動中に聴きながら思わず「おぉ〜」とつぶやき、iPhoneのメモに記録したりしてしまう私は、かなりのオタクと言えるだろう。でもこのラジオ番組、1998年からのロングランで、放送回数は1,600回以上に及び、リスナー層も子どもから高齢者まで実に幅広い人気番組だそうだ(英語教師のファンは特に多いらしい)。たくさんの言葉オタクの同志がいると思うと、嬉しくなる。

心を運ぶ言葉

教員として毎日生徒の前に立っていた20代の頃、自分の話す言葉に自信がないのが大きな悩みだった。特に、卒業式や学校行事のあとや、クラスで問題が起きたあと、世間で大きな事件が起きたあとのホームルームなど。伝えたい思いはあるのに、その場でパッと思うように言葉にできないもどかしさ。その時その時に、伝えたいと思ったことを一生懸命考えて伝えたとは思うが、「もっと何か言えたんじゃないか」、「もっとうまく伝えられたら・・」と唇をかみしめて職員室に戻った時の気持ちは忘れられない。その頃、先輩の先生方が生徒に語りかける様子を見ながら、いつか私もあんな風に、人の心にまっすぐ響く話がしたい、と強い憧れの気持ちを募らせていた。

アメリカの大学院での指導教官は、教員歴30年以上のベテランの先生だった。この先生も、生徒や若手教員に対してかける言葉が本当に温かくて、優しいけれど力強いパワーが宿っている感じだった。私はこの先生に、「どうやったら周囲にそんなふうに言葉をかけられるようになるのか」と相談してみた。すると、その先生はこう言ってくれた。「私が生徒や同僚に語りかける言葉は、すべてこれまでの人生の中で、誰かが私のことを思って言ってくれた言葉だったり、日常生活の中で私が出会って助けられた言葉ばかり。あなたは、言葉が好きなのが伝わってくるから、あなたが大切にしている言葉や、勇気づけられた言葉を、ここだと思うタイミングで周囲に言ってあげればそれで良いのよ」ーー。これを聞いて、それまで人前で話すことを頭の中でぐるぐると考えてばかりいた私は、すっと楽になった。そうか、世の中に山のようにある、私が好きな言葉たちを、周りにもシェアすればいいんだ。それなら自分にもできそうだ。

私の「言葉ノート」

私の「言葉ノート」

それ以来、私は「言葉ノート」をつけるようになった。手のひらサイズの小さな白いノートで、誰かに言われてはっとした言葉や、思わず笑みがこぼれた言葉、辛い時を乗り越える時に役立った言葉、日常生活の中で心に刺さった言葉などをとにかく記録している。日本語と英語がちょうど半々くらい。読んでいる小説の一節、スポーツ選手の試合後インタビューの中の一言、友人がSNSに投稿していた言葉、ヨガの先生が紹介してくれた詩の一節、友人からのハガキに書かれていた言葉・・。日記の類が1ヶ月以上続いたことがない私だが、気づけばもう何年も続いていて、ノートは私の好きな言葉たちで詰まっている。

言葉ノートをつけながら、改めて気づいたことがある。言葉は、一度誰かの心に響いたら、ずっと長いことお守りのようにその人を勇気づけたり、励ましたりできる力を持っている。物やお金の贈り物は、いつかは壊れたり使い切ったり、なくなったりしてしまうが、言葉の贈り物は時空も世代も超えて、そっと誰かの背中を押し続けることができる。この言葉ノートは、私にとってもお守りのような存在になっていて、特に少し元気をなくしたときに初めから終わりまで一気に読み返すと、心が温かくなって確実に少し元気になれる。

誰かから引き継がれた愛おしい言葉をたくさん持っている幸せを噛み締めながら、私も、1つでも2つでも、誰かを励ます言葉を贈ることができるようになっていきたいと思う。

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