ハワイ王国の旧都ラハイナから

ハワイ州マウイ島にあるラハイナの町は1820年から1845年までハワイ王国の首都でした。ハワイ島出身のカメハメハ大王(一世)が1810年にハワイ諸島を統一し、ホノルルが最初の首都でしたが、カメハメハ二世と三世の時に一時、ラハイナが首都になりました。1820年代に多くの宣教師が到着、同時期から1860年代までは太平洋の捕鯨の基地になり、その後サトウキビ農園とパイナップル農園が中心の経済が100年ほど続き、1960年代からは観光業が主な産業になっています。まさにマウイ島の歴史がぎっしり詰め込まれている町です。

ワシントンDCからラハイナに引っ越してから早7年が経ちました。休暇でマウイ島に来ていた時には気がつかなかったことは多々ありますが、日系人が果たしてきた役割も見逃せません。

自宅の前にかかった虹

自宅の前にかかった虹

サトウキビ農園で始まった日本人移民

日本人のハワイへの移動はハワイがまだ王国だった明治元年(1868年)にサトウキビ畑での契約移民として153名の日本人がホノルルに到着した時から始まりました。こうして送られた最初の日本人労働者は、明治初年の元年者(がんねんもの)と呼ばれました。1882年に中国人排斥法で中国からの労働者の数が限られたため、日本人移民の数は1880年代の後半から急増しました。1886年(明治19年)に明治政府とハワイ王国の間で日布移民条約が結ばれ、官約移民と呼ばれたハワイへの移民が公式に許可されるようになりました。当初は広島県、山口県、熊本県からの労働者が多かったのに加えて、1900年に沖縄からの移民が大幅に増え、今でもハワイでは沖縄関連のフェスティバルなどが多く行われています。

1880年代からマウイ島にも日本人労働者が増え、1920年頃にはマウイの総人口4万人の40%以上まで占めるようになりました。3年契約で来た労働者は暑いハワイでの過酷な労働環境の元で、契約期間が過ぎて半数は日本に帰国したと言われています。サトウキビ畑では中国人、フィリピン人、日本人、ポルトガル人など出身国別の居住地(「キャンプ」と呼ばれていました)が設置され、当初は言葉の違いでコミュニケーションがなかったところ、畑で一緒に作業をしたり、スポーツを通じたり、子供たちが共通の学校に行くに連れ、徐々にキャンプ間の交流が増え、違った国籍間の結婚も増えました。労働条件の改善のためにキャンプを超えて農園に対しストを組織したり、共通の目標に向かって行動をする機会が増えました。

ラハイナのあるマウイ島西部では1860年設立のパイオニアミル社が4,000ヘクターのサトウキビ畑を開拓し、1999年まで操業を続けました。1912年には今は有名なカパルアゴルフコースになっている当時のホノルア農場でパイナップルの栽培が始まりました。日本人労働者の数は1924年に連邦移民法が日本を含めたアジアからの移民を全て止めるまで増え続けました。

ラハイナの町中にあるプランテーションミュージアム。当時の生活が良くわかる

ラハイナの町中にあるプランテーションミュージアム。当時の生活が良くわかる

この間、1898年にハワイは米国に併合されハワイ準州となり、1959年に50番目の州になりました。日系二世の数も増え、真珠湾攻撃が行われる前年の1940年にはハワイの全人口の約37%の15万人強を日本人あるいは日系人が占めるほどになりました。

ハワイに残った一世およびその子孫は、その後、プランテーションから政治、教育、ビジネスの世界に広がっていきます。第二次世界大戦の間はハワイでも日系人が様々な施設に強制収容されましたが、日系人の数が全体の人口に対して多く、日系人がいないと地域の生活や経済が成り立たなくなると同時に、収容所を作るとなると莫大な経費と土地を必要とすることになるため、3,000人程が収容されたオアフ島のホノウリウリ抑留キャンプを除くと、他の島では収容者の数はごく少なく済みました。

ラハイナで見える日本文化

日系人が増えると共に、お寺の数も増え、ハワイでは多くの仏教の宗派が存在します。人口2万人強のラハイナの町だけでも三つのお寺が存在し、真言宗は1902年、本願寺は1904年、浄土宗のお寺は1912年に設立されました。キリスト教のミッショナリーの影響も大きかったのでラハイナの町には20近くのキリスト教会もあり、教会とお寺が隣り合っている光景もあります。

浄土宗のLahaina Jodo Missionはラハイナの町のビーチフロントに位置し、モロカイ島、ラナイ島、カホオラウェ島の3島と西マウイの山々を見渡せます。お盆にはお寺の前の海での灯籠流しと櫓を組んでの盆踊り、年末には除夜の鐘を一人一人順番につくなど、日本の習慣が色濃く残っています。加えて多くの地元の人たちが境内で行われるFarmers Marketなどの催しにやって来ます。数年前にお盆の食事作りを手伝いに行った時には、日本から助っ人として来ていた浄土宗のお坊さんが、「日本では今では仕出し弁当を注文しているところ、マウイではまだ皆が集まって昆布巻きとかを作っているんですね。」と感心しておられました。

Jodo Missionは三重塔と屋外の仏像が海と山の景色に映える

Jodo Missionは三重塔と屋外の仏像が海と山の景色に映える

宗教に限らず、ハワイではアジアの習慣があちらこちらで見られます。お年寄りを大事にして、血の繋がりがなくても「おじさん(Uncle)、おばさん (Auntie)」と呼んだり、家に上がる時には靴を脱ぐのが当たり前であったり。スーパーで買える紫芋入りのお餅の中にピーナツバターが入っていたり、フリカケ入りのポケ丼が地元の人たちのランチであったり、海苔で巻いたスパムむすびがあったりと日々の生活にアジアの影響が多く見られます。

観光業に頼るラハイナ

1960年代から一挙に進んだリゾート開発はマウイの経済と景色を様変わりさせました。ラハイナの街中は歴史的建造物を保護するために、建物の高さ制限があり、高層建築を立てられませんが、北に数マイル行ったカアナパリ地区は、シェラトン、ハイアット、マリオットなどのホテル、タイムシェアやコンドミニアムが立ち並んでいます。1999年にマウイ島西部の最後のサトウキビ畑が閉められ、多くの人々が農業から観光業へ仕事を変えることになりました。

ニューヨークのマンハッタン島がすっぽり入る大きさの休火山ハレアカラ

ニューヨークのマンハッタン島がすっぽり入る大きさの休火山ハレアカラ

年間300万人に上るマウイ島への観光客の数はCOVIDの影響で2020年は急激に減りましたが、2021年になって2019年並みの数に戻っています。しかし気候変動の影響で沿岸線が浸食されたり、住宅費が高くなり普通の人が家を買えなくなったり、交通渋滞が続いたりと問題は山積しており、それらに対し色々な対策が立てられようとしています。

農園に頼った経済は終わっても、その歴史によりハワイは米国内で最も人種が混ざった州になり、人々がアロハ精神の下で個々の違いを尊重しながら共通の目標に向かって一緒に行動していくという雰囲気を色濃く残しています。私がマウイでの生活が好きなのは、これらの先人の働きに大きく頼っているのだと思います。


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