別姓のススメ

結婚と通称

1989年、結婚とともに私の戸籍上の名字は、それまで32年間慣れ親しんだ旧姓から夫の姓に変わった。当時、特に旧姓にこだわりがあったわけでは無かったが、それまで続けていた仕事では旧姓をそのまま使うことに決めた。それは、名字を変えると自然と結婚したことを対外的に知らせることになり、そこから儀礼的にお祝いをいただくようなことになるのを避けたかったのが一番の理由だった。今思えばそんなことは杞憂だったのかもしれないが、当時は対外的に仕事を発注する立場にあったので、個人的に親しい間柄の方はともかく、そうでない仕事相手に気を使ってもらうことを負担に感じたのだ。それ以来、仕事では現在も旧姓のままである。そんな訳で、旧姓を使っているのには何か強い意図があるのではなく、夫からも特に異議申し立てもなかったので、なんとなく流れに任せて今に至っている。

結婚して移り住んだ東京郊外の町での人間関係は、その後、娘が生まれるまでそれほど深いものではなく、せいぜい両隣に住むご近所と挨拶を交わす程度だった。したがって、夫の姓で呼ばれるのは、ご近所とたまに訪れる病院ぐらい。自分自身の生活の中では、圧倒的に旧姓の使用頻度の方が高かった。

娘の誕生と戸籍上の姓

それが、娘が生まれてからは、保育園から高校までを通じて加速度的に結婚後の姓を使う場面が増えていくことになる。生活圏では、娘を中心にご近所や学校関係、習い事を通した友人・知人が増え、週末に親子で交流する機会も多く、結婚後の姓が私の中で徐々に馴染みのあるものになって行った。

その中で、娘の保育園最後の年には、夫の姓そのものが養子縁組で変わり、私と娘の名字も変わることになった。私にとっては旧姓から夫の生家の姓、そしてさらに新たな姓へと変化した。それによって、我が家では日本画の作家である夫は仕事ではそのまま生家の姓を、私も仕事は旧姓を、娘は養子縁組後の新姓で、と三つの姓が存在することになった。

困ったのは電話に出る際に何と名乗るかである。私の仕事関係の電話が家にかかってくることはほとんどないので、かかってくる電話は夫の仕事関係か、それ以外の戸籍上新しくなった姓で私達を認識している相手からだ。受話器を取って新姓を名乗ると、夫の仕事の関係で電話してきた相手は間違えたと思い戸惑うし、かといって以前の名前のまま電話に出るともう一方が間違えたと思うということが度重なった。仕方がないので、失礼ながら受話器を取っても名を名乗らず「もしもし」とだけ言って、相手が「○○さんのお宅ですか?」と切り出すのを待つことにした。これは今もそのまま続いている。

旧姓を通称としたメリット

仕事の名前をたまたま旧姓のままにしたことで、仕事の場で何度も名前を変えたり、その都度何らかの説明をしたりする必要がなくて済んだのは、煩わしさが省けて良かったと思う。年賀状の差出名を結婚後と養子縁組後で変えた時には、私の高校時代の友人から「離婚して再婚したの?!」と驚かれたことがあり、こちらもびっくりしたが、言われてみればなるほどと思った。仕事でも名前をその都度変えていたら、そう思われたかもしれない(そう思われるのは構わないけれど、いちいち説明するのは面倒なことである)。

職場で出会った相手と今年7月に結婚した娘も、仕事では旧姓のままだ。それは単に同じ名字の人間が職場に二人いると混乱を招くのを避けるという理由もあるが、家の中にそれぞれ違う姓を持つ家族の中で育った娘にとって、仕事でそのまま旧姓を名乗ることに違和感はなかったのだろうと思う。もっとも娘の場合、結婚した自分の戸籍上の名前がかつてファンだったアイドルの主演するドラマの主人公と同じ名前になったので、意外と新しい名前を使いたいかもしれないのだが……。

名前とは

名字とは、名前とはいったい何なのだろうとあらためて考えてみる。

中学生ぐらいまでは、好きな相手の名字と自分の名前を組み合わせて書いてみたりして、何かドキドキしつつ嬉しいような気持ちになったことを思い出す。あれは相手の姓になること=今とは違う、具体的には分からないけれど、未知の自分を想像して胸がキュンとしたのだと思う。けれど、実際に結婚する頃にはそういう無邪気な感覚はどこへ行ってしまったのか、どちらかと言えば、どちらの姓でも構わないと思っていた。

偶然、旧姓と新姓を使い分けることになり、名前とアイデンティティは繋がっていると思う。結婚して32年、独身時代と同じ年数が経ったことになる。新姓・旧姓を使い分けてきた32年と旧姓で過ごした32年。これほど月日が経っていても、結婚後の名字の方はいまだに借り物のような感覚がある。旧姓の自分はより素の自分に寄り添っていて、精神的には自由度の高い個としての存在で、結婚、そして養子縁組改姓後の姓を名乗る自分は家族も含めた共同体の一部という存在だと感じる。

そう考えると、たまたま旧姓を残したことで、精神衛生上ちょうど良いバランスが保たれているのではないか。逃げ場がある、というのか、何となく意識せずとも両方を行ったり来たりしているような感じと言ったら良いだろうか。仕事を辞めたらそのバランスはどうなるのだろう。仕事で旧姓を使う女性は案外多いのではないかと思うけれど、仕事をしていなくても自由に姓を使い分けられる、バーチャルではない選択肢があったら嬉しいと思う。


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