日本語教師40年: アメリカの公立高校から

アメリカの多くの高校での日本語を教える教師の多くが、「偶然」に教師になったように、私も思いがけなく、日本語を教えることになったひとりである。1987年、私はアメリカ人の夫の就職にともなって、東京からアラスカ州の州首都ジュノーに移り住んだ。日本の経済成長がミラクルと呼ばれたる時代である。幸いなことに、ジュノーの公立高校で日本語教師の職が見つかり、すぐに働き始めた。そこで10年、素晴らしい学生達との出会いから、日本語教師をいわば、人生の目標として日本語教師に取り組むようになったのである。

その頃のアメリカ国内にはハワイとメリーランド州のウィットマン高校以外日本語のクラスはなく、日本語教育の現場といえば、テキストはもとより、カリキュラムも、サポートなども一切なく、授業は全て私の手作り、自由といえば自由だが、戸惑いも多かった。日本語を漢字圏外の生徒に教えるということは大変なことで、授業の準備に追われる日々だった。

メリーランド州へ

1997年の夏に、アラスカ州からメリーランド州に、これも夫の仕事の関係で移ってきた。翌年からモンゴメリー郡の公立高校、ウィットマン高校で教えることになった。ウィットマンは、メリーランド有数の進学校であり、ここに職を得られたのは幸運だったが、それだけに要求されるものも多く、ジュノーにいた時とは雲泥の差。子育てをしながら、私自身、相当の努力をせざるを得なくなった。

まず、3年内に州の教員資格を取得しなければならなかった。その取得には大学院の単位が必要だったので、そのために大学院入学資格試験(GRE)を受けた。さらに当時の規定であったNational Exam for Teachers(現在Praxis)にも合格しなければならなかった。本格的に専門としての日本語の勉強もしなければならない。周りに尋ね聞く人は誰もいない。まさに孤立奮闘を続けた。その後もそれで終わるわけではなく、高校の教師は5年ごとに教員免許の更新が必要で、その都度、大学院の6単位の取得証明を提出しなければならなかった。

そして昇給したければ、学位を取る必要がある。教員になってから5年経つとほとんどの教師が修士号を取り、更に博士号も取ろうとする。そうすれば、最高のサラリー・コースに乗ることができる。このシステムによって、例えば、ウィットマンでは、90%以上の先生が修士号を持ち、博士号を持っている者も珍しくない。

ウィットマン高校にはその頃すでに外国語として選択できる4ヶ国語(フランス語、スペイン語、ドイツ語、ラテン語)があり、日本語を入れると5ヶ国語となった。各外国語の教師は5コマ教えてフルタイムの給料が貰えるので、学生の取り合いが起こった。日本語が入ったために、フルタイムからパートタイムになってしまった先生がいたりして、他の同僚から恨まれるということになった。

多国語教育が進む現場

現在は、元からの4か国に加えて、中国語、ロシア語、アラビア語、イタリア語、American Sign Language(手話教育)が導入され、9ヶ国語が競う中で、日本語への関心は薄れ、学生数が減っていった。来年は韓国語が導入されるとも言われている。政治経済がグローバル化している社会では、多くの外国語を勉強する機会があって当然であることは認めざるを得ない。選択肢が多い学生たちは恵まれている。しかし教える側にとっては、学生を必要数獲得して、日本語プログラムを維持するために、大変な努力を払わなければならない。自分で自分のプログラムを広報宣伝する、アドボカシー活動をすることが必須である。じっと座っていたら、学生は集まらない。これこそ孤立無援の闘いである。

高校レベルの外国語の選択に関しては、本人の意思に反して親が決定したり、また高校のカウンセラーが強く薦めることもある。地域的にも、ウィットマンのような一流の公立高校の生徒の親は弁護士、医者、外交官、博士号を持つ研究者など、最高学歴をもつエリートたちである。子供によい教育を与えて一流大学に入れるために、わざわざウィットマン高校の学区に移り住む。そうした親にとって、日本語は馴染みなく、不可解であり、また、日本語が将来の就職先につながらないと見れば、とても魅力がない。そして自分の子どもの成績が下がらないように、簡単にAが取れるスペイン語を選ぶというのが一般的になっている。この傾向をひっくり返せるだけの、力のある英語で、親を説得し、学生を引き込めるーーそんな日本語教師がどれほどいるのだろうか。

日本の姉妹校との交流風景

日本の姉妹校との交流風景

日本の姉妹校との交流風景

日本の姉妹校との交流風景

日本の姉妹校との交流風景

日本の姉妹校との交流風景

日本語教育者のミッションとは

日本語教師の第一のミッションは、日本を理解し、日本が大好きというアメリカ人を作ることであり、それを日本語というメカニズムを通して達成することにあると思う。単に日本語能力の向上ではない。高校は義務教育であり、どんな学生も受け入れる環境でなければならない以上、選択科目の一つである外国語は、音楽や絵のクラス同様に、能力の上下でクラスを分ける事もない。

日本語という科目とは直接関係のない悩みもある。近年、精神的に悩む学生が増え、特殊教育(日本の「特別支援」にあたる)が必要と認められる範疇にいる学生も著しく増えている。教師はそうした学生にも対応していかなくてはならない。その為、私はSpecial Educationの修士号も取った。Special Educationでは連邦政府、州政府、現地の教育局のルールにおいて、特殊なニーズを持つ学生のAccommodation という規則が全ての教科に義務付けられている。この義務をどうすればよいのか理解するために大学院に戻って、修士号を取得した。その結果、必要な学生には、授業の内容を一部減らしたり、時間を延長したり、タスクの一回の量を部分ごとに分けて実施することが出来るようになった。

ソーシャル・メディアでいじめが横行している社会の中で、精神的な打撃を受け、立ち上がれなくなった学生が引きこもりになったり、自殺もするような今、高校生のメンタルヘルスの向上のために、義務教育の目標の一つである博愛精神の育成を授業の中に織り込むように新しいカリキュラムが導入された。教育局もこれを真剣に取り上げ、教師向けのワークショップが実施され、学生たちに向けては普通の授業を短縮してワークショップが毎月行われるようになってきた。アメリカの高校教育の現場は日々、ダイナミックに動いているといえるだろう。

ここでの教え子がのちに、トップ大学へ進んで、日本語をものにして、一流企業に入っている例は多々ある。大人になり、友人として、食事を一緒にしたり、旅行に一緒に行ったりする機会がある。結婚式に招待され、さらに二世が日本語を学びに教室へ来てくれた時の喜びは教師冥利に尽きる。ここの公立学校では定年という決まりはないので、健康が維持でき、自分がやれると思えば、いつまでも教え続けることが出来る。これを天職として、まだしばらく日本語を教え続けたいと思っている。

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