AIは優秀なアシスタント、されどアシスタント
AIは本当に便利です。メールを書く、原稿を執筆する、企画書を作る、調査結果をまとめるなど、一日の大半を文章作成や情報処理に費やしている私は、正直に言うと、もうAIなしでは仕事になりません。
特に英語です。日本語なら多少の編集や推敲は自分でできますが、英語となるとそうはいきません。私はこれまで、英語で論文や発表原稿を書くたびに、夫に「ちょっとこれ見て」と編集をお願いしてきました。夫は英語の母語話者ではありませんが、小学校から大学院まで英語で教育を受けた言語学博士です。そこらの英語母語話者よりも高い英語力と編集力を備えています。一方、日本語の全く分からない夫の方も、長年私の英語と格闘させられてきたおかげで、今ではかなりの日本語教育通になっています。そんな夫も、ChatGPTの登場によって、貴重な学習機会を失うことになってしまいました。
AIのすごさはそれだけではありません。思いついたアイディアを箇条書きで放り込めば、それらしい企画書を作ってくれます。支離滅裂なメモを入力しても、きれいに整理してくれます。絶望的に絵心がない私が描いた落書き同然のスケッチでさえ、まるでプロの作品のような画像に変えてくれます。
大学院生だった頃の私から見れば、まさに夢のような道具です。
大学に就職したばかりの頃、「アカデミアで成功するには優秀なアシスタントを得ることだ」とよく言われました。自分一人で何でもやろうとするのではなく、学生や同僚の得意分野を察知し、適材適所で力を借りることが大切だというわけです。
幸いなことに、私はこれまで多くの私よりはるかに優秀な学生、同僚、スタッフに恵まれてきました。それぞれの個性や専門性を生かしながら仕事を進めることは効率的で、また楽しくもあります。そう考えると、今やAIは私にとって最も頼りになるアシスタントの一人と言っても過言ではありません。
かゆいところには手が届かないAI
ところが最近、その優秀なアシスタントとの付き合い方について改めて考えさせられる出来事がありました。毎年5月にプリンストン大学で開催される日本語教育フォーラムで「AI時代における第二言語での批判的『読み』とは」というテーマで講演する機会をいただいたときのことです。
私は密かに期待していました。思いついたことを書き出してChatGPTに投げ込み、アウトラインを作らせれば、それをもとにスライドも講演原稿も一瞬で完成するのではないかと。ちょうど大学でもGoogle系AIの利用ライセンスが認められ、Geminiも堂々と使えるようになったところでした。これだけの道具が揃えば、格式高い学会の基調講演といえども、準備はあっという間に終わるに違いないと企んだのです。しかし、現実はそう甘くありませんでした。
確かにAIの作るスライドは立派です。画像も美しく、文章も流暢です。ところが、どこか違うのです。講演の内容や流れが勝手に変わっているし、私が伝えたいことともずれています。完全に間違っているわけではないのですが、何とも言えない違和感が残るのです。
結局私は、「そうじゃないんだよなぁ」、「勝手に変えるなよ」、「ちゃんとウラは取ったんかい」とブツブツ独り言を言いながら、AIの出してきたものを書き換え、プロンプトを書き直し、また聞き返し、ときには自分で調べ直すという作業を何度も繰り返しました。気が付けば、莫大な時間と労力を費やし、一から自分で作っていた頃よりも時間をかけていたのです。
そのとき、私は悟りました。AIを使いこなすためには、使う側に「これはいい」、「これは違う」、「ここはこうすべきだ」と評価できる力が必要なのだということを。
AIはデータの大まかな傾向やパターンを捉えることは得意です。しかし、かゆいところに手が届くような成果物に仕上げるためには、使う側が細かく指示を出さなければなりません。そして、その指示が具体的であればあるほど、満足のいく結果が返ってきます。結局のところ、学生アシスタントに仕事のやり方を教えるのと同じです。
主導権は誰に?
そもそも評価するという行為には大前提があります。それは、評価する側が評価される側よりも、少なくともその分野においては高い知識や技能を有していなければならないということです。そうでなければ、単なる感想に過ぎません。
娘たちが幼かった頃、私はよく帽子やフリースジャケットを手作りして、娘のあらゆる友だちにプレゼントしていました。すると必ず子どもたちが「You did a good job!」と褒めてくれるのです。もちろんうれしいのですが、どこか違和感があります。それは、たかだか小学校低学年の子どもが、経験豊富な大人の編み物や裁縫の技術を評価できると思い込んでいる前提そのものに微笑ましさがあるからです。
AIとの関係も似ています。もし私がAIの出力を評価できず、それを100%信じ切ってしまったらどうなるでしょうか。それは、アシスタントが主導権を握ることを意味します。しかし、アシスタントはあくまでアシスタントです。何を入力し、何を採用し、何を捨てるか、その判断を下すのは常に使う側でなければなりません。
私は最近、その主導権を決して手放してはならないと強く感じています。
これは外国語学習にも通じる話だと思います。私は半世紀以上前にドイツ語やスペイン語を勉強しましたが、使う機会がないため、今ではほとんど忘れてしまっています。もしドイツやスペインを旅行するなら、翻訳アプリやAIを喜んで使うでしょう。そして、「なんて便利な時代になったのだろう」と感動すると思います。
しかし、その言語圏で生活したり仕事をしたりするとなれば話は別です。なぜなら、私は翻訳アプリやAIの出力を評価できないからです。本当に正しい翻訳なのか、微妙なニュアンスが伝わっているのか、そのような判断ができない以上、仕事で使うことはありません。私が現在、英語でAIの助けを借りながら仕事ができているのは、半世紀以上英語と格闘してきた結果、それなりの判断力を身につけているという自負があるからです。
もしドイツ語やスペイン語が仕事で必要になったら、私はまた一から学び直すでしょう。単語を覚え、文法を学び、フラッシュカードで確認し、人と対面で会話し、何度も失敗を繰り返すと思います。AIが会話練習の相手になってくれる現代であっても、その過程そのものはなくならないでしょう。携帯電話もなく、駅の伝言板で待ち合わせをしていた昭和時代の泥臭い学習法は、案外しぶとく生き残るのかもしれません。
AIは便利です。おそらく、これからますます便利になるでしょう。しかし、その便利さを活用するためには、AIの出力を評価し、修正し、責任を持って活用できるだけの専門知識とスキルを身につけることが必要です。
AIは優秀なアシスタントです。しかし、アシスタントに判断まで委ねた瞬間、私たちは自らの専門性を放棄することになります。だからこそ、AIを使う時代であればあるほど、人間の知識や経験、そして批判的に考える力がこれまで以上に重要になるのではないでしょうか。
ジョージタウン大学東アジア言語文化学部教授・日本語学科主任。専門は第二言語習得研究で、語彙習得、読解、多言語環境における学習者の個人差を研究。日米で40年以上にわたり言語教育に携わり、現在は AP Japanese Language and Culture のチーフリーダーを務める。2024年米国日本語教師協会(AATJ)会長、2025年外務大臣表彰受賞。



