アメリカの大学入学審査について:私と娘たちの体験から
私のアメリカ大学入試体験(1970年代後半)
私は1960年から1970年にかけて東京で生まれ育った。その間海外在住の経験など一切なかったが、高校の時一年間アメリカに交換留学したのがきっかけで、日本ではなくアメリカの大学に進学する決心をした。当時(1970年代後半)はアメリカの大学の情報を得られる場所は日本国内でただ1か所(?)、赤坂のビルの中の小さな一角にあった合衆国教育委員会(?)の閲覧室に置いてあったBarron’s Guide to American Collegesという分厚い目録だけであった。アメリカの一大学につき半ページぐらいが割かれていて、大学の所在地、学生数、図書室蔵書数、専攻科目、学生の全国共通テスト(SAT) の平均点数などごく限られた情報しか記載されていなかった。その閲覧室に通ってこの情報を写し取り(当時はコピー機もなかった)、そこから数校を選んで「詳しいカタログを送ってください」という手紙を送り、数週間後に送られて来たカタログの中に折り込まれていた願書を切り取り、それに手書きで記入し(タイプライターも持っていなかったし、タイプも出来なかった)、加えて同封すること、と要求されている自己紹介のエッセイ(これもすべて手書き)などを一緒に茶封筒に入れて郵便局から国際郵便で送り返す、というものだった。
「アメリカの大きな有名大学では大学院が重要な地位を占めていて、学部生の授業や採点などは大学院生が担うことが多く、教授は院生と一緒に自分の研究に没頭していて学部生を教えることに熱心ではない、それに加え大きな大学では学部生の授業は大きな講堂での講義が多い」と聞いていたので、そうではなくもっと少人数制で教授に直接教えてもらえるような、大学院のない小さな米国北東部のリベラルアーツカレッジ数校に絞って願書を出すことにした。
私のSATの点数(英語と数学の2科目の試験だったが、特に英語の方)はどこのカレッジの標準点よりはるかに劣っていた。でも、まだ珍しかったアジアからの外国人留学生、ということで優先してくれたのだろうか、すべてのカレッジから入学許可が来た。アメリカの大学は当時はまだ圧倒的に白人男子学生が占めていて、白人女子学生も非白人男女学生も今の常識からは想像もつかないほど少なかった(私が入学したカレッジは一学年500人ぐらいだったが、黒人、アジア系、ヒスパニック系、国外からの留学生はそれぞれ僅か数パーセントだったのではと思う)。
マイノリティー経験を通した成長
私はそこで他の学生たちと寝食を共にするキャンパス生活を送ったが、その間様々な「人種、言語、教育方法などによるマイノリティー体験」をすることになった。英語のハンディ、日本と違う授業の進め方、学力の評価方法など私には不慣れなことが多かった。読み書き話す、のすべてが遅かったので、授業中のディベートや、時間制限内に教室で何ページも書き上げなければないエッセイ(論文)試験などは苦手であった。そういう私を見て「あの子は特別枠で入ってきた実力不足な生徒」扱いする学生や教授もいた。
でも、当時のアメリカ社会を反映しているともいえた白人主体の大学キャンパスでのマイノリティー経験は本当に貴重であった。私にもちゃんと実力はあり結果も出せるということを示すために人一倍努力する事を学んだ。図書館で文献調べに自分の使いたいだけ時間を使って一つの課題を深く追求し、それをリサーチペーパーにしてまとめる、という学びは私に向いていたのか、やっていても楽しく、教授たちも高く評価してくれて、私のペーパーにペンで細かいコメントを入れてくれるようになった。それについて発表し、皆で話し合う機会なども設けてくれ、他の学生が「今日のヒロコの発表面白かったよ」と言ってくれることもあった。他の白人学生たちが恵まれた高校時代にすでに当たり前のように習得していたディベートスキルとか、エッセイスキルなども私は見よう見まねで学んだ。そして彼らは「よく学び、よく遊ぶ」術もマスターしていて、日常生活の時間配分・メリハリのつけ方や、やらなければならない事の優先順位のつけ方などでも私にとっては目から鱗が落ちる思いだった。
アメリカの大学で4年間過ごすうちに、このように自分で調べ、考え、書いて、まとめ、発表して批評してもらい、再考する、というプロセスを重視するアメリカ社会で、これからも自分の興味を追求し、物事を考え続けてゆきたいという願望が強くなった。それ以前は「卒業したら英語を武器として日本で通訳・翻訳その他の分野で自分の生活費をきちんと稼げるようになりたい」という漠然とした思いがあったが、次第に「私もこの周りにいる学生のように卒業後はアメリカで自分のキャリアを追求すべく次のステップ(大学院など)を模索する」という将来が実現可能な道筋として思い描けるようになっていった。そしてその後、アメリカのロースクールに進学し、米国弁護士の資格を取り、アメリカに永住する決心をし、現在にいたっている。つまり、私の4年間のアメリカ大学体験が、その後40年にわたる私の人生の文字通りの原点となったのである。
今振り返ると、箸にも棒にもかからない共通テストの点数しか取れなかった私が拙い英語で手書きで送った入学願書だったが、その中にあった何らかの内容が大学の入学審査委員の目に留まり、その人が私のファイルを取り上げてくれて「ちょっと冒険だが、この子に入学チャンスを与えてみてはどうか」と審査委員会の同僚を説得してくれたのだろうか。その人が誰だったのか、そしてそれがいかに難題であったのかもしれないか、今では知る由もないが、その審査委員のその一言がこのように私の人生を大きく変えるきっかけを作ってくれたのだ、と今でも固く信じている。
娘たちのアメリカ大学入試体験(2010年代後半)
私自身の大学体験から40年後の2010年代後半に、中国生まれでアメリカ育ちの私の双子の娘たちがアメリカ大学入試体験をすることとなった。それを横から観察しながら、私の頃に比べて大学に関する情報量や出願方法などすべてが根本的に違うということを目のあたりにした。願書も個々の大学のものではなく、Common Applicationというウェブサイトにアクセスしてそこの用紙にオンラインで記入し、そこから希望する大学に直接送信されるという仕組みになっている。そのコモンアプリケーションで聞かれるのは、名前、住所、メールアドレス、所属高校、性別、国籍、人種、家族構成など基本的な情報に加えて課外活動、ボランティア活動、アルバイト、受賞歴、数種類のトピックスから一つ選んで書くエッセイなど。高校での履修科目や成績や先生の推薦状などは高校から直接大学に送られる。全国共通テスト(SAT、ACTなど)の点数はテストを実施している団体から直接大学に送信される。
コモンアプリケーションで要求されているエッセイの内容の選択肢は多岐にわたっている。「自分のアイデンティティーの中で自分にとって最も大切なものは何か」とか「自分が時の経つのを忘れるほど熱中する事は何か」とか「自分がどのような逆境や挫折に直面しそこから何を学んだか」とか「誰かにしてもらった事で、自分でも驚くほど嬉しく感謝した事は何か」とか。その中から自分に一番しっくりと来て書きやすいものを一つ選ぶ。
以上のすべての大学に共通している記入項目以外に、大学が個別に要求しているものもある。最も多いのは「どうしてこの大学に行きたいのか」などのエッセイであろうか。面接試験は、昔は当たり前のように行われていて、個人をよりよく知る重要な手段として大学側も生徒側も重要視していたが、近年は出願者の増加に加え、キャンパスに遠方から赴いて面接を受けるだけのリソース(親の財力やサポート)がある子が圧倒的に有利になってしまうという理由で廃止している大学が多い。他には、顔写真を送ってもいい、という大学もあった。ビューティーコンテストじゃあるまいし、真の目的は何かと疑ってしまう。自分が深く関わった科学実験や研究のレポートや、自作のアート作品の写真、楽器演奏の録音、演劇やダンスの録画などをアップロードして送ってもいいという大学も多い。
私たちは首都ワシントン郊外のヴァージニア州に住んでいるが、娘たちが高校の最終学年に上がる直前の夏休みには彼女たちが興味のある大学のキャンパスを訪問する目的で西海岸のカリフォルニア州には飛行機で、東海岸のニューヨーク州、マサチューセッツ州、ペンシルベニア州、ノースカロライナ州などは車で何日もかけて旅行した。行く先々での学校説明会やキャンパス・ツアーなどは事前にオンラインで予約しておかないと入れない。それもすぐ埋まってしまう。私の夫は勤務先から長期の夏休み休暇をとって一緒に来てくれたが、キャンパス訪問旅行中は交通費はもちろんのこと親子4人のホテル滞在費もかさむわけで、全米にはこのように仕事を休んで高額の出費をして子供たちをキャンパス訪問に連れて行く親たちの何と多いことかと驚いた。
と同時に、このようなキャンパス訪問もできず、その他の有形無形の大学受験サポートが経済的その他の理由で親や学校から受けられない子供たちはその何万倍といるわけで、その子たちはいったいどうやってこの受験プロセスを乗り切るのだろうか、それとも過当競争の有名大学の受験そのものを諦めてしまうのか。アメリカ社会ではこんなところでも厳然たる格差・差別があるのだと実感した。
不公平を是正する「最初で最後の砦」としての大学
私の娘たちが最終的に選んだ小さなリベラルアーツカレッジでは、合格通知の冒頭に一言、”We believe in you!” と書いてあった。普通は「おめでとう、あなたのこれまでの成績・業績がすばらしいので我が校に入学を許可します」なのだが、この大学のは少しニュアンスが違った。過去の業績のみならず、むしろあなたのこれからの伸びしろ・可能性を信じているので、4年間の大学生活があなたのその可能性を将来具現化させていくための貴重な基礎固めとなるよう、ぜひ我々にお手伝いさせてください、一緒に全力を尽くしていきましょう、という前を向いた(forward-looking)メッセージなのだ。このようにして将来の可能性を信じてもらった学生たちは、低所得層の家庭の場合、このカレッジでは年額1千万円近くの授業料のみならず、寮費、食費、本代や教材費、健康保険料などの細微に至るまで全額支払い免除となっている。
アメリカの大学は、人生最初の17~18年にわたる「家庭環境、学校環境、コミュニティー環境の不公平性」を是正すべく学生に様々な機会やサポートを与え、彼らが切磋琢磨しながらお互いの違いから学び、自己実現や社会貢献などの可能性を伸ばしてゆくチャンスを与えるという、多くの子供たちにとっては「最初で最後の砦」であるといっても過言ではない。その砦、つまりアメリカの総合的な高等教育環境をどのような境遇で生まれ育った子供たちでも享受できるようにするために絶え間ない努力をしてゆく、という大学の役割は、アメリカの真の民主主義を支え、強化していくうえで必要不可欠であり、死守されなければいけないものである。その砦の重要な構成要素は、どのような専門分野や思想を持った教授が何をどのように教えるか、といういわゆる「学問の自由」だけではない。学生たちをどのような基準や配慮をもって受け入れるか、という理念・信念こそが個々の大学にとっては学問の自由にも匹敵する大切な要素であり、アメリカ社会における存在意義そのものでもあるのだと思う。
東京生まれ。雙葉学園高校在学中1年間アメリカのフロリダ州に留学。ウィリアムズカレッジ、コロンビア大学法科大学院を卒業後、ニューヨーク州の弁護士資格を取得。マンハッタンの法律事務所でビジネス法務、その後ワシントンの世界銀行で南アジアや中東の開発プロジェクトの法務などを担当。