ソフトパワーと外交
編集者としてのソフトパワーとの出会い
1988年10月に専門月刊誌『外交フォーラム』が創刊された時、日本外交には三本柱があった。政府開発援助(ODA=Official Development Assistance)、国連における平和維持活動(PKO = Peace Keeping Operations)、そして国際文化交流の三つである。外務省が同誌の編集を、私が当時働いていた出版社に委託した関係で、私は編集者として、「外交」の世界に足を踏み入れることになった。その外交の三つ目の柱が、その後の私の人生に大きく影響を与えるものになろうとは。人生は面白い。
当時のバブル経済を覚えている方もおられよう。第二次世界大戦後、敗戦国のゼロから立ち上がった日本が、世界でも随一の援助国となり、地球上の紛争地にヒトは派遣できなくてもカネは出す、ということで国連にも積極的に関与し、常任理事国入りさえ目指していた頃のことである。
そして時は移り、バブルは弾け、そのまま日本経済の低迷は復活することなく今に至っている。世論から国連信奉主義も霧消した。某国立大学法学部ですら、授業の講座名に「安全保障」という言葉を使用することが憚られていた時代もあった。しかし、朝鮮半島から次々と打ち込まれる飛行物体と、拉致被害者の存在によって覚醒した日本は、日米同盟を基軸とした、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP = Free and Open Indo-Pacific)」を提唱し、地域の安全保障に理論的にではあるものの貢献する国となるに至っている。
そんな流れの30年間で、先に触れた三本柱のなかでも変わらず残ったものが、文化交流であり、そこから派生してきた日本文化の対外発信であったと思う。私が編集者として、当時ハーバード大学ケネディ行政学院学長だったジョー・ナイの手による単行本を担当したのは、1999年のこと。そのナイが『ソフトパワー』を刊行したのが2004年のことである。
本年2023年、「ソフトパワー」という言葉が世に広く出てほぼ20年となる。その時期を同じくして私は、国際交流基金と外務省に19年間奉職し、この3月末に退職するまでそのすべての期間を、日本で、米国で、そしてシンガポールと勤務地を変えつつも「文化交流」と「日本文化の発信」に集中してきたと言える。
そんな私に、VIEWS夏号特集のテーマであるソフトパワーについて書いてみないか、というお誘いである。中にいるのと、外から見るのとでは見えてくる景色が違うように、同じ「ソフトパワー」についても、人ぞれぞれの解釈と意味合いがあって、自分でもきちんとした論考を書いたことがなかったので、正直、迷った。が、しかしこれを機会に少し振り返ってみることにしよう。そして、なぜ私がいま、職業人生のたぶん最後の仕事として、米国の非営利団体、しかも「日本庭園」を選んだのか、そういったことを読者のみなさんと分かち合ってみたい。
ハードパワー炸裂の現在、ソフトパワーに何ができるのか
2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻してから、論壇は「ハードパワー」の話で持ちきりになった。国家の強制力をもった軍事力と経済力をハードパワーと定義すると、まさにこの戦争はそのハードパワーがもたらしたケースである。ハードパワーがいきついたその先に「戦争」が起きるとすれば、その通りのことが起きたわけだが、まさか21世紀の現代に、目の前で(おもにTVやインターネットによる報道だが)、戦車が国境を越え、空爆によって市民生活が破壊されることが起きるとは。予想していた研究者がいたとしても、一般市民がそれを現実感をもって想定できたか。私も唖然とした一人であった。
圧倒的なハードパワーによる作為を目の前に、ソフトパワーで何ができるのか。所詮、ソフトパワーだけでは戦争は防げないではないか、ましてや戦争の終結、その原因の解決はできないのではないか。それまでですでに2年に亘り続いていたパンデミックで、世界の多くが内向きになっていた時である。多くの人々がそう感じたにちがいない。しかし、ジョー・ナイ自身も、外交にはハードパワーとソフトパワーの両方が重要であると言う。
海外勤務中の私は、パブリック・ディプロマシー(対市民外交)の一環として位置付けられているソフトパワーに、とくに日本文化がもつそれに大変助けられたというのが実感である。マンガやアニメ、ゲームに村上春樹、クロサワの映画にファッション、建築やデザイン、ユニークな江戸美術を含む日本美術に工芸品など、日本はそういった地球規模で受容される日本文化がもつ「ソフトパワー」が、その印象を良い方向に助け、とかく歴史問題や社会における女性進出の遅れ等々のネガティブ要素を補完する意味でも評価されていた。
また、たとえば日本社会の組み立て、とくに犯罪率が低く検挙率が高いという安全・安心な社会、鉄道に代表されるインフラ事情、礼儀正しい日本人像、高齢者が大切にされる長寿社会、はては地産地消の恵みにあふれた和食や酒などまでが、ソフトパワーの範疇とすれば、それこそソフトパワーを、対市民外交のツールとして使う案件は日本文化では無尽蔵といっても良いほどだったし、今後もそうであろう。
研究者や国際機関の間では、戦争は終結を迎えていないものの、すでにウクライナの復興についての議論が始まっていると聞くし、パンデミックによってより進んだサブナショナル外交(国家対国家とは限らず、都市間や地域間など非対称の形態を含む外交)も進んでいる。パンデミックのために異例づくしの開催となった東京オリンピック・パラリンピックでも、ソフトパワーのおかげで、日本では実施直前に市民からは開催反対の声が上がっても、中国の論壇封殺のようなことは起きなかった。また、開催中にベラルーシの参加選手から亡命申請が上がった際に、日本はこれを受け入れポーランドに亡命を斡旋したというのも、日本にソフトパワーが存在するからだと、慶應義塾大学の渡辺靖教授は説いた。
しかし外交の現場では、財政逼迫の折りから国際交流基金の予算も本年度は前年比30%カットという惨憺たる状況と聞いている。せっかく日本文化の地平線上に広がるソフトパワーを使った対市民外交ができるかもしれない中、新興国に比べて予算が貧弱で、取り組めることに制限がでてきたのは、残念なことである。
ソフトパワーとしての「日本庭園」
これまで対市民外交の担い手には、国家や外交官以外のアクターたちがたくさんいることを、外交の現場で実感してきた。それはどの国であっても、市民・国民であり、非営利組織やビジネス界、若い起業家やスポーツ関係者や芸術家など枚挙にいとまがない。そういった多くのアクターたちと接していると、老若男女・人種にかかわらず、人間としての心の平安、身体の健康、ひいては地球の健康という意味での環境問題に大いに関心があり、ライフスタイルを重視していることに気がついた。それらが充実しないと、重要な国際関係もサステナブルではないのは当然という考えである。
日本文化ファンの著名人は世界に多くいるが、かつてスティーブ・ジョブズやデイヴィッド・ボウイなどが「日本庭園」にそういった心の平安を求めて頻繁に訪ねていたと聞いた。またシンガポールのような亜熱帯の植生のところですら、自宅に日本庭園を作る人などがいることを勤務先で知った。これは「日本庭園」がソフトパワーになっている証左ではないか。しかも、「庭園」=ガーデニングといえば、私の長年の上司、元駐米日本大使である加藤良三大使が日頃から言っていたのが、「日米関係、就中(なかんずく)、日米安保にはガーデニングの如きケアが大事だ」ということである。
そんな折り、長年の知り合いであったオレゴン州ポートランド日本庭園CEOのスティーブ・ブルームから、「ジャパン・インスティテュート」を立ち上げるので、人を募集していると聞いた。これを、渡に船というのであろう。この仕事を始めてまだ2ヶ月の私だが、日本庭園が持つソフトパワーが広げてくれる地平線は、実はかなり広いことを実感している。日米関係にとどまらず、現場は世界だ。昨年から、国際平和シンポジウムを世界の六大陸で実施しようという計画のもと、まずはロンドンの王立植物園(キューガーデン)と連携して一件、ノルウェイのノーベル・ピース・センターとも一件実施した。今年はニューヨークのジャパン・ソサエティと、その後は南アフリカでネルソン・マンデラ財団との共催案件を抱えている。来年以降はオーストラリアとブラジルでの実施も射程に入れている。日本事務所も法人化をして(これが私の主たるミッションになるが)、日本庭園をキーワードに日米交流を多角的な要素からさらに深めていきたい。もし、これを機に興味をもっていただければ、ぜひ読者の皆様にも一度現地を訪問いただき、この日本庭園にどんなソフトパワーが宿っているか、ご体験いただきたい。
(写真はすべてポートランド日本庭園にて、2023年6月に撮影)
ポートランド日本庭園/ジャパンインスティテュート 日本事務所長(上席執行役)東京都出身。津田塾大学英文学科(アメリカ研究専攻)卒。米系投資銀行勤務を経て、都市出版(株)にて単行本・定期刊行物の企画・編集に携わり、外交専門月刊誌『外交フォーラム』編集長を務める。国際交流基金情報センター部長、在アメリカ日本大使館参事官日本文化広報センター所長、国際交流基金ロサンゼルス日本文化センター所長、在シンガポール日本大使館参事官ジャパン・クリエイティブ・センター所長、国際交流基金日米文化教育交流会議(CULCON)日本側事務局長を経て2023年5月より現職。