ゴッホの糸杉

2つの『メトロポリタン』

6月初め、大好きな監督たちの作品に出演するお気に入りの歌手たちを観にニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に行った。うち2作品はこれまた大好きなモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』と『魔笛』、そしてもう1つはワーグナー作曲『さまよえるオランダ人』。このように毎シーズン、何度かオペラやお芝居、その他のパフォーマンスを観にNYを訪れるのだが、その際あちこちの美術館で特別展を観るのが習慣だ。

という訳で今回観た特別展の1つが、メトロポリタン美術館の「ゴッホの糸杉展」(5月22日―8月27日)。ゴッホは人気があるので、特別展入場希望者はまず携帯電話でQRコードからヴァーチャルの列に並ぶ。すると大体の待ち時間が分かり、入場の順番が来ると携帯電話に通知が来るというシステムになっていた。これはゴッホ展と同時開催のカール・ラガフェルト展で初めて導入されたとのこと。何よりも長蛇の列に並ぶ必要がないので、待ち時間にはそのほかの展示を観て、時間を有効に利用できるのが素晴らしい!(でも携帯電話を持っていない人とか、QRコードに慣れていない人とかはどうするのかしら?)

特別展入口©池原麻里子

特別展入口©池原麻里子

ゴッホの糸杉展

糸杉展では、ゴッホが2年間に及ぶプロヴァンスでの滞在で描き続けた糸杉に関連した作品が時系列で40点ほど展示されている。うち2点はメトロポリタン美術館所蔵で、その他はアムステルダムのゴッホ美術館や個人所蔵など。特別展は普段慣れ親しんでいる(つもりの)画家の作品が、特定の視点から世界中の美術館から一か所に集められて展示され、そこから新たな発見があったり、より深い理解につながるので見逃せない。そしてなんと言っても嬉しいのが、普段は観ることができない個人コレクターの所蔵品が観れること。個人所蔵の作品は通常、恐らく盗難を避けるために展示の際はPrivate Collectionとだけ書かれ、氏名は明らかにされないことが多いが、今回はオラクル創業者ラリー・エリソン氏の所蔵品だけ氏名入りだった!(浮世絵が大好きでその影響を受けたゴッホ、同じく日本美術好きのエリソンという共通点が2人にはある)

ラリー・エリソン氏所蔵『Farmhouse among Olive Trees』©池原麻里子

ラリー・エリソン氏所蔵『Farmhouse among Olive Trees』©池原麻里子

アルルにて

ゴッホはプロヴァンスで初めて糸杉を観てから、徐々にあの空気も草木花もすべてうごめいているような独特の画風を確立するようになる。最初に展示されている1888年4月の弟テオ宛の手紙には、「実っている小麦畑か糸杉の上に星輝く空を描きたい」と記している。パリからアルルに移住(1888年2月―1889年5月)した直後の作品は、パリで影響を受けた印象派風の作品から始まる。例えばピサロから直接教えを請けた点描画法を用いたデッサンや絵画が展示されている。10月末にはゴーギャンとの共同生活が始まるが、二人の仲は悪化し、12月末に起きた有名な耳切事件で、ゴーギャンは去り、ゴッホはアルルの病院で入退院を繰り返す。

サン=レミにて

そして1889年5月、ゴッホはサン=レミの療養所に移動する。現場でのデッサン、それに基づいて描いた油絵など彼は糸杉を描き続けた。あのゴッホ独特の画風が確立したのはこの時期だ。そして描いた作品の1つが、今回のハイライトともいえる星が夜空に光輝き、糸杉が炎のように揺れ動めくあの有名な「星月夜」(NY近代美術館所蔵)だ。これが完成したのは上述のテオ宛の手紙から試行錯誤を続け、1年以上経てからのことだった。メトロポリタン美術館所蔵の「二本の糸杉」もサン=レミで描かれている。よく観ると糸杉の実がなっているのが分かる。

The Starry Night 星月夜 (1889)

The Starry Night 星月夜 (1889)


『二本の糸杉』

『二本の糸杉』

1889年5月のテオ宛の手紙には、「いつも糸杉に心惹かれている。というのも誰も僕にとって見えるように描いていないことが驚きだからだ。」「その美しいラインはエジプトのオベリスクのように調和がとれている」と記し、二本の糸杉の絵が描かれてある。手紙は一緒に送ったデッサンと展示されている。

その後、病状が悪化し、1890年5月にはこの療養所を去り、7月27日には自らを銃で撃ち、2日後には死亡。サン=レミで描いた「糸杉と星の見える道」(オランダのクレラー・ミュラー美術館所蔵)という作品が、糸杉をテーマとした作品の最後となった。そこに描かれている歩く2人の男性はゴッホとゴーギャンだと言われている。

『糸杉と星の見える道』

『糸杉と星の見える道』

この特別展では、1901年、パリの回顧展で展示された65点の作品の一部が初めて一緒に展示されている。(パリの展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクといったフォーヴィスムの中心的画家たちに大きな影響を与えたそう。)また現場でのデッサンをもとに、スタジオでそれをドラマティックなゴッホらしい油絵に仕上げていることが良く分かり、とても興味深かった。あのぐるぐると揺れ動くような枝葉ぶりの常緑木糸杉、炎の人ゴッホには永遠に燃え続ける炎のように見えていたのだろうか。


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