日本再発見―転換期の歴史に触れた旅

コロナ禍の2年余、旅行もままならず、まして入国規制の厳しい日本への帰国を諦めた方も多いだろう。2020年3月半ばにコロナ禍で封じ込められて以降、私も日本行きをリスケジュールすること4回。しかし、この5月に念願の日本帰国を果たすことができた。コロナ発生後初めて、更に2020年3月末に退職してから初めての旅行でもあった。そして、もう一つの「初めて」は、仕事も家族も忘れて1カ月も遊び歩いたことである。この1カ月間に、北は札幌、小樽、函館から南は瀬戸内海の直島、尾道、そして四国の高松、松山まで、行ったことがなかった色々な場所を訪問した。今回の旅は、私自身が2年半というブランクの後で、「日本」にことのほかハングリーであったためか、はたまた歳のせいか、各地で日本の歴史の一端を肌で感じる極めて新鮮なものであった。幕末の戊辰戦争、大正天皇の足跡に触れながら、私の日本再発見の旅をお話ししたい。

日本近代史の幕開け、幕末の空気に触れる

全く意図していなかったし、寧ろ偶然であったのだが、今回の旅行では会津若松と函館の五稜郭を訪問し、東京都台東区谷中の徳川慶喜の墓をお参りする機会を得た。この3つの名前を聞いただけでピンと来る方は、日本の近代史、幕末の混乱期をよくご存知の方であろう。私は恥ずかしながら、歴史の教科書で学んだ名前は覚えていても、何を成し遂げた人物か、その地との関わりなどはすっかり忘れていた。この時期、1853年のペリー率いる黒船来航に続く開国を契機に、日本は大きな転換期に差し掛かり、動乱の中で命を懸けた戦いが展開され、今日の民主国家の基盤が形成されていたのだ。

まず、日本到着早々のゴールデンウィークの初め、未だユニクロの軽いダウンジャケットが必要なほど寒い磐梯を訪問した。裏磐梯の五色沼ではその不思議な「色」に魅せられ、雪の残る磐梯山を後に会津若松へ。幕末の戊辰戦争の会津での戦い、特に白虎隊の悲劇で知られる町である。この戊辰戦争が正に私が訪問した3か所を繋ぐ鍵なのである。歴史に詳しい方には申し訳ないが、ここで、戊辰戦争に関して、簡単に説明しておこう。

雪の残る磐梯山(福島県)

雪の残る磐梯山(福島県)

不思議な色の五色沼(福島県)

不思議な色の五色沼(福島県)

開国によってもたらされた民主化への気運の中、1867年11月には江戸幕府15代将軍、徳川慶喜が朝廷に政権を返上する大政奉還が行われ、同年12月「王政復古の大号令」が発令された。旧幕府の影響力を排除しようとして新政府を樹立した明治天皇側(薩摩藩・長州藩・土佐藩など)の新政府軍の方針に旧幕府軍が強く反発し、京都近くの鳥羽・伏見で新政府軍と武力衝突したことが戊辰戦争の始まりとなった。戊辰戦争は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから、江戸城無血開城、東北戦争、会津戦争、そして箱館戦争を経て、1869年6月に旧幕府軍が投降するまでの1年半の戦いであったが、日本の歴史を大きく変えた日本最大の内戦であった。

冷たい雨の降る会津若松、白虎隊を思う

東北戦争を経て、既に旧幕府軍の敗色が濃厚になっていた1868年晩夏、会津若松では旧幕府軍の奥羽越列藩同盟や新選組が新政府軍と対陣して激戦を繰り広げた。その戦いのために、会津藩は16歳から17歳の武家の男子による白虎隊を組織した。白虎隊は前線に駆り出され、多くの若い命が失われた。中でも負傷して敗走した二番隊の20名は、用水路を通って飯盛山へと進んだ。しかしながら、命からがらたどり着いた飯盛山で鶴ヶ城付近から立ち上る煙を見て、敗戦を悟り自決した。19人の少年隊士が命を落とした悲劇として、多くの小説やドラマとなって語り継がれている。私たちが訪れた小雨の降る肌寒い日、冷たい水が勢いよく流れる、白虎隊が逃げた用水路の洞門の出口に立った。そして若い隊士たちの怖れと無念を思い、黙祷を捧げた。

白虎隊の隊士が逃げて通った用水路の洞門

白虎隊の隊士が逃げて通った用水路の洞門

箱館(函館)戦争の拠点となった五稜郭

会津若松の冷たい空気に触れた一週間後、札幌、小樽、函館を訪問した。5月の道央、道南は実に清々しい。函館には、ペリー来航後の1854年、下田と共に開港された「箱館港」を通して、イギリス、フランス、中国、ロシアなど様々な国の文化が入り、今でも異国情緒に満ちた街並みが残っている。箱館山から見る函館の町の美しい夜景は有名であるが、その麓に星形の五稜郭がある。

箱館山からみる函館の夜景

箱館山からみる函館の夜景

1855年に設計・建設が始まった五稜郭は、当時としては珍しい五角形の西洋式の要塞である。設計・建築を担当した武田斐三郎は、出身は武士であるが、蘭学者、科学者でもあり、明治維新後は、陸軍大佐として活躍した時代の先駆者である。彼は、箱館に寄港していたフランス軍艦の軍人たちから知識を吸収し、欧州の城郭をモデルにして五稜郭を設計したと言われる。工事開始から7年後の1864年に完成したが、僅か4年後の1868年、会津で負傷した新選組の土方歳三が、旧幕府海軍の榎本武揚と合流し、この五稜郭に籠って戊辰戦争最後の戦い「箱館戦争」を展開した。この戦争は「五稜郭の戦い」とも呼ばれ、その中で土方歳三は戦死し、旧幕府軍が鎮圧されたのを最後に戊辰戦争は終結した。5月中旬、桜の名所としても知られる五稜郭は眩しいほどの新緑に埋まり、ところどころに鮮やかなつつじの花が咲いていた。この美しい公園で、江戸幕府の存続を賭けた熾烈な戦いが展開されたとは信じがたい。

五稜郭タワーから見た五稜郭

五稜郭タワーから見た五稜郭

徳川慶喜が眠る谷中霊園

これらの旧幕府軍が忠誠を誓った徳川の最後の将軍、慶喜は谷中の墓地に眠る。日本滞在中、私は親しい友人の配慮で谷中をベースとしていた。谷中霊園にはできる限り通い、そこに眠る人々を偲ぶのが密かな楽しみとなった。その中に、徳川慶喜のお墓があった。歴代将軍が眠る上野にある寛永寺でも、港区芝にある増上寺でもなく、神式の埋葬を希望し、谷中霊園を選んだのは本人であったと言われている。フェンスには徳川家の家紋である「葵紋」があり、円墳状の立派なお墓がある。約260年続いた徳川家による江戸から、新しい時代の明治へと時代の転換、日本の新たな出発を見届けた人物でもある。

大正天皇がご静養された日光の旧御用邸

北海道から東京に戻り、幕末史や戊辰戦争に関する本に夢中になっていたが、次なる訪問先は日光であった。東京から比較的近い世界的に有名な観光地に、実は私は未だ一度も行ったことがなかったのである。

煌びやかな日光東照宮から歩いて20分ほどの街道沿いに、深い緑や鮮やかな草木に囲まれた広い庭園と静かな佇まいがあることはあまり知られていない。1899年(明治32年)から1947年(昭和22年)まで3代にわたる天皇・皇太子が利用した田母沢(たもさわ)御用邸で、江戸・明治・大正と三時代の建築様式をもつ明治期の中でも最大規模の木造建造群である。部屋数は106室あったというが、現在あるのは本邸のみである。幼い頃より病弱で幾度も大病に罹った大正天皇のご静養のために造られた御用邸であるが、和風建築の中に、絨毯やシャンデリアも取り入れ、正に和洋折衷の極みとも言える。「近代和風宮殿様式」と呼ばれるのだそうだ。

その庭には様々な草木が植えられており、貞明皇后の部屋の前には樹齢400年余のしだれ桜がある。川を倣ったせせらぎが流れ込む池があり、私たちが訪問した5月中旬には、泡の卵で知られるモリアオガエルも見られた。カエルや様々な鳥の鳴き声を聴きながら、大きな庭園を散策していると、こんもりした木の茂みの中に防空壕を見つけた。この美しい庭園の中の意外な存在に一瞬ぎょっとしたが、 東京大空襲に備え、当時皇太子(学習院初等科5年生)であった上皇が疎開しておられたという。

大正天皇は、皇太子時代には日露戦争、韓国併合を経験し、即位後は大隈重信内閣による日本の第一次世界大戦への参戦の上奏を受けた。大正天皇は皇室初めて一夫一妻制を確立し、軍事への関与を好まず、和歌や漢詩を創作し、漢詩1367首を残している。御用邸を散策しながら、病弱でおられた大正天皇がどのようなお気持ちでこの御用邸で静養なさり、また貞明皇后がしだれ桜をご覧になりながら、何をお考えになったかに思いを馳せた。47歳にて崩御された大正天皇は、即位15年間と日本の近代史では最も短い時代ではあったが、世界の中で日本が確立された時代でもあった。

今回の旅行では、期せずして日本の転換期にゆかりある場所を訪問し、日本の歴史を変えた幕末の空気に触れ、そして日本近代史の証人となった大正天皇のお気持ちを察する機会を得た。昨今の世界情勢の中での価値観の変化や日本の置かれた立場を考え、歴史の変化は既に起こっていて、気が付いたら新しい時代が始まっているのかもしれないと考えさせられた。

田母沢御用邸の庭

田母沢御用邸の庭

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