10年前の癌診断を振り返って
自分で発見した癌
私は医師の勧め通り、40歳からマンモグラフィーを毎年欠かさず続けてきた。2011年の秋のマンモも何の異常も無しで、婦人科の定期健診でも全てOKという診断だった。しかし、2012年3月にシャワーの時に自分でチェックして、小さなしこりが左胸にあるのに気づいた。定期健診からほんの4か月後に過ぎなかったが、婦人科に再度アポを入れた。
15年間かかりつけで、1997年には卵巣脳腫の手術をしてくれた女性のドクターが再チェックして、「大丈夫だと思うが、念のためにバイオプシー(生体組織診断)をしましょう」と言うので、父の誕生日の4月16日にバイオプシー検査をした。2日後の午後に、オフィスに電話がかかってきて、「しこりは悪性・癌だ」という宣告を受けた。ショックでしばらくの間言葉が出てこなかった。初対面だったバイオプシ―の男性担当医は「 大丈夫?」と何回か繰り返し聞いてくれ、何とか気を取り直し、「次のステップは?」と聞くと、「手術をして、そのあとに治療計画を立てるのがいいだろう」と言われた。当然、仕事は手がつかずだったが、いくつか入っていた予定をうわの空でこなしながら、その合間にかかりつけの婦人科医に相談。ワシントンDCにあるSibley(シブリー)病院の女性外科医を紹介してもらい、現役ではないが医者でもある夫にも連絡をとった。頭が真っ白になるというのは正にこのこと。その日のその後のことは、あまりよく覚えていない。
とりあえずは外科医のアポをとり、夫にも一緒に来てもらい、色々な説明を聞き、手術は早めにと、今度は娘の誕生日の5月16日にアポが入った。この4週間弱の期間に、上司とチームリーダーに、「まだどのステージなのか、どれくらいの休みが必要とかはわからない」とまず報告した。彼らは「必要なだけ十分時間をとって治療してほしい」と理解を示してくれた。ちょうど、日本語学校の幼稚部に入学したばかりの娘には何も伝えなかった。母の日の直前の日本語学校では、恒例のお母さんへのプレゼントを作り、放課後に作品を見せてもらいながら、他のお母さんたちと微笑みながら、「私は来年もこういうプレゼントをもらえるのだろうか」と思っていた。娘の誕生日が手術の日だったので、急遽、国立動物園での誕生日パーティーを早めることになった。
手術の当日は、朝早くから夫と病院に行かなければならなかったので、同僚で、乳癌経験者でもある友人に頼んで、娘を前日から泊まらせてもらい、現地校に送迎してもらった。娘は夫から私が手術をするということは聞いていたが、私には癌の説明をする余裕はなかった。病院に着くと、体の他への転移を調べるためリンパ腺も部分的に摘出すると言われた。麻酔のベッドでは、すっかり犠牲者モードにはまっていて、夫にこれは彼のせいだと言い切り、「どうして私がこんなことに」と涙がとまらず、麻酔医が「すべて大丈夫」となだめてくれているうちに、意識が薄れていった。
術後の治療計画―免疫療法にチャレンジ
腫瘤はきれいに摘出され、術後、午後には退院し、その日の夜は、友人が娘を送ってきてくれ、人気のお店「ジョージタウン・カップケーキ」のカップケーキで一緒に娘の誕生日を祝った。自宅療養もそこそこ、仕事は3日休んだだけ。リンパ腺の検査の結果、私の乳癌はステージ1bで微小転移巣が発見された。その結果と再発の可能性15-17%というデータをもって、今度は癌内科医と癌放射線医にアポをとり、今後の治療計画の相談に行くことに。私は、当時の色々な情報をとり、また、乳癌経験者の友人、同僚にも相談して、自分としては化学治療は絶対やりたくないと思っていたが、内科医には、絶対に放射線治療と化学療法の両方をすべきと言われ、アメリカの西洋医学を過信している夫も両方やるべきだと強く推していた。
2012年当時は、免疫療法はまだ珍しく、アメリカでは特殊な脳の癌でステージ4だけが、臨床試験の許可が下りていた。日本では、免疫療法には保険は効かないが、アメリカよりもう少し一般に知られていて、私の親友のお母さんは2003年にステージ4の胃癌を腫瘤摘出術と免疫療法で克服されていた。他の国で免疫療法がおこなわれていたのは、スウェーデンとイスラエル。私はどうしても化学療法をしたくなかったので、スカイプで親友のお母さんの担当医だった先生に連絡し、手術で摘出した癌細胞を日本に送り、免疫療法の可能性と利点を相談した。
このことを夫に報告し、日本で治療したいと申し出たが、彼は納得してくれず、ワシントンの医師たちも化学療法と放射線療法の一点張り、私は完全に孤立状態に陥ってしまった。自分の身体なのに、どうして私の思う通りの治療が受けられないのか、と不満とストレスに悩まされた。そんな中、乳癌経験者で仕事の先輩が、彼女の癌内科医(男性)を紹介してくれた。最初の内科医は女性だったが、高飛車で患者の言い分など全く聞いてくれなかったので、セカンドオピニオンを聞くということでアポを取った。彼に免疫療法のことを相談すると、彼は考え方が柔軟で、日本の医師とコーディネートして治療を計画・モニターしてくれると言ってくれた。
さあ、あとは夫をどう説得するか。ちょうど日本の親友が、共通の友人の誕生パーティーのため、ニューヨークに来ることになって、それを数日早めてワシントンに来てもらうことにした。そして、乳癌を数年前に経験し、夫からも色々アドバイスを受けていた同僚の友人にも相談し、二人を夕食に招待し、娘を寝かしつけた後、三人で夫の説得にかかった。結局、彼にとってはコストが問題だということが判明し、それは私がすべて持つので(最終的には私の父が負担してくれた)、私が日本に治療に行く2か月の間、娘の面倒を見てほしいと頼んだ。また、彼にとっては、免疫療法は西洋医学の一環だが、まだ新しいため信用できないと言っていて、最終的には私も折れて、放射線療法と免疫療法を併用するということにした。
この期間、私は代替療法もかなり調べ、アルカリ食事療法、酸素療法、漢方療法、波動療法など、友人たちのアドバイスも含めて色々考えたが、これといった決定的に説得力のあるもの、また、私自身が心から信用できる療法には出会わなかった。
短期障害保険で7月から10月半ばまで病欠を取るため、やりかかっていたクライアントの組織改編の提案レポートを急いで仕上げ、代わりに担当してくれるスタッフにブリーフィングをし、クライアントにも説明。全面的サポートをもらうことができた。チームメンバーにもオープンに説明したが、やはり、「なぜ私が?」という思いはつきまとっていて、みんなが優しくしてくれるほど、涙があふれてきた。放射線治療は7月から5週間。癌が左胸の心臓にすごく近いところだったので、かなり怖い思いをした。治療の初日には、かなりパニック状態になり、涙と震えが止まらなかった。何とか乗り切って8月頭から10月半ばまでは日本へ。
2012年の夏はヨーロッパへ休暇に出るはずだったが、急遽日本に変更。夫と娘もバケーションでついてきて、2週間後にアメリカへ帰って行った。日本での治療の最初のアポは、2時間で血液から成分を取る作業。私はただベッドに横たわって血液が循環するチューブを眺めながら、娘と喋っていた。その後は1週間に一回注射を受けに行くだけで、それをトータル6回。
日本滞在中は、結局かなり時間があったので、当時やりかけていた博士論文を仕上げようと思っていたが、結局あまりできないで終わってしまった。あとで聞いてなるほど、と思ったのは、癌宣告を受けた人が体験するCancer Brain症候群。癌宣告は人にかなりのショックをあたえ、脳の働きを変えてしまうというのだ。確かに、私は宣告後、物事が覚えられなくなり、集中力もガクッと落ちてしまった。これは癌が治ればもとに戻るというものではないらしく、私はその後も色々な手法を導入して対応してきた。記憶に頼らず、メモを頻繁にとり、カレンダーと時計のアラームをフル活用する、頻繁に休憩する、などなど。
この日本滞在では、親友の逗子の別荘に滞在させてもらい、高校・大学の友人たちと頻繁に会い、両親と北海道へ旅行したりもして、過去25年、1-2週間の休暇帰国以外は日本を留守にしていた私にとっては、とても有意義な2か月になった。
今後の医学進歩に期待
アメリカに帰国してからは、ホルモン治療を続ける以外は、外科医、放射線医、内科医の3人を定期的に交代で訪問するだけだった。ホルモン剤は最初、5年服用といわれていたが、2年目に入ったときにポリシーが変わり、10年服用ということになった。しかし、私は副作用で足の痙攣がひどくなり、夜もよく眠れなくなってしまったので、3年を経過したところで、独断でホルモン剤の服用はストップした。手術から5年後、3人の医者から完治宣言をいただき、癌卒業ということになった。
それからさらに5年が経って、医学は日進月歩。2018年だったか、ワシントンDCで2年毎に行われる学生向けのScience &Engineering Festival では免疫療法に関する、大学教授や研究者によるプレゼンテーションがいくつかあった。いまでは、免疫療法だけではなく、オプジーボや、遺伝子治療など新たな治療法が数々出てきている。ひと昔は、癌は死の宣告と言われていたが、近い将来には、癌は治る病気と言われるようになるとか。癌発生の原因をはじめ、予防法も含めて、これからの医学の斬新的進歩に期待したい。
30年近く5つの国際機関で人事関係の仕事を経て、2019年12月に早期退職。ボランティアで日本語、折り紙を地元バージニア州アーリントンの子供たちに教え、世田谷とアーリントンをつなぐ草の根活動、ニューヨーク州立バルーク大学・行政・国際関係学部の諮問委員会でも活動中。