日本に欠ける本当のソフトパワー
コロナ禍が明け、日本にもインバウンド客が一気に増えた。最近の海外からの観光客のお目当ては京都などの伝統文化だけではなく、話題のラーメン屋、ポケモンカードショップやアニメの聖地のようだ。こうしたものが今やソフトパワーとして政府の宣伝材料にもなっている。
ソフトパワーという概念が用いられるようになって久しく、2010年には英国の総合情報誌モノクルがランキングを発表し、それ以降複数のランキングが出るようになっている。
2022年のモノクルのソフトパワーランキングでは日本は30か国中6位、インド戦略研究フォーラムの調査では15か国中4位、ポートランド(英国のメディア企業)発表の2019年版「ソフトパワー30」では30か国中8位と評価されている。
ソフトパワーとは
そもそもソフトパワーとは何であろう。この概念を広めたのはハーバード大学のジョセフ・ナイ教授である。1990年出版の著書 “Bound to lead; the changing nature of American power” (「運命の指導国:アメリカの力の変貌」)で「一国が自国の望むことを他国に行わせるために用いるハードパワーまたは強要する指令力に対し、自国と同じことを他国も望むようにするよう説得して味方に付けることをソフトパワーということができる」と記している。
軍事力を振り回した脅迫とか経済力で強要するのではなく、自国の魅力を利用し他国に同調させるということである。ではソフトパワーはどう計るのであろう。モノクルは測定の基準として文化、教育、ビジネス・改革力などを項目にあげている。ポートランド社は「政治組織の質、文化の魅力、外交ネットワークの力、高等教育の世界的評判、経済モデルの魅力、そして世界とのデジタル上の結びつき」の総合評価によるとしている。
同社2019年版では1位はフランス、アメリカは2016年の1位から5位に転落、日本は前年の5位から8位に転落している。アメリカが転落した理由として文化やDX、教育面で変わらぬ膨大な資産を有しているものの、政府機能の停滞や国民からの信頼の失墜、貿易戦争、世界的環境問題への関心の薄さなどが挙げられている。
日本は文化面での評価を伸ばしたものの、韓国との関係の悪さ、商業捕鯨の再開が大きなマイナス点となったと指摘されている。自由や人材育成、政府の有効性が考慮される「政府」項目、高等教育を尺度とした「教育」項目では日本はトップ10にも入らない。
安全保障面でのハードパワーとソフトパワー
今、日本が選択を迫られている重要課題の一つが日本の防衛力の在り方である。岸田政権は防衛費を北大西洋条約機構(NATO)並みのGDPの2%に引き上げるとしている。予算は主に装備、つまりハードパワー増強に用いられることになる。
ロシアのウクライナ侵攻により、中国の台湾攻撃への懸念が深まった。日本ではアメリカの台湾防衛に日本が巻き込まれるのではないか、あるいは日本の領土そのものが攻撃されるのではないかと不安が広まっている。日本は自国の防衛をアメリカに依存しているが、日本の防衛努力なくして日本をアメリカが守ることにアメリカ国民が納得するかは大きな疑問がある。ハードパワーの強化は生の軍事力、中国に対する抑止力の強化であると同時にアメリカの日本防衛のための保険の積み上げでもある。
しかしハードウェアに予算をつぎ込めば、目的は達成できるのだろうか。ウクライナ戦争をみれば戦闘機や弾薬がなくては戦えないのは明らかだが、ウクライナがここまで善戦しているのは、高度なハイテク技術を有す豊富な人材や国を挙げてのデジタル化が強い武器となっているからである。一方、日本はデジタル化に遅れ、高度な半導体製造ではもはや追いつけないほど取り残されていると言われる。スイスの国際経営開発研究所が発表する世界デジタル競争力ランキング(2022年)で日本は63の国・地域中29位である。
他の形の安全保障ソフトパワーもある。スウェーデンとフィンランドは中立政策を掲げ戦争回避に努めてきたが、スウェーデン人のダグ・ハマーショルドは第二代国連事務総長として国連の発展に貢献、フォルケ・ベルナドッテは国連調停官として第一次中東戦争解決に従事し、フィンランド元大統領マルッティ・アハティサーリは国連特使としてコソボの地位問題やインドネシアのアチェ和平合意に尽力するなど国際連合の発展や紛争解決に貢献し国際的評価を得てきた。
本当のソフトパワーとは
ナイ教授はソフトパワーには文化、政治的価値観、政策という3つの分野があるとした。そして、民主主義とか人権、個々に与えられる機会といったものは非常に魅惑的で、そうしたものが人々を魅了することで、時間をかけて彼らがそれらを求める結果をもたらすことになると記している。
この定義やランキングからも、日本が総合的なソフトパワーに欠けるのは明らかだ。例えば生成AIのような革命的発想を育むに必要な平等な機会や、自由な発想を育み戦わせる競争原理が働く社会体質や民主主義が機能する政治体制はあるのだろうか。
世界経済フォーラム発表のジェンダーギャップ報告書(2023年度版)では、日本は146か国中125位、韓国や中国より低い。男女に与えられる機会は明らかに平等ではなく、女性の首相や大臣が珍しくなくなった世界で、日本では通常、首相が選ばれる衆議院の女性議員の割合はわずか10%である。移民や難民は国の大きな労働力だけでなく先端技術をもたらす力でもあるが、少子高齢化の中でも難民認定率は1%である。
日本はビジネスを育む体制も十分とはいえない。世界銀行ビジネス環境ランキング(2020年)では190か国中29位。また民主主義や政治体制の規律を守るために重要な役割を果たすメディアを見ると、国境なき記者団発表の報道の自由度ランキング2022年では日本は180か国中71位である。
一方軍事力、経済力というハードパワーで1位を維持するアメリカだが、ソフトパワーという点ではアメリカの民主主義そのものが脅かされているとの懸念もある。しかしアメリカを悪魔とみなすイランでも、若者を中心にアメリカ行きを望む。そこには平等な機会があり、起業のチャンスもあるとみなされているからである。
また、大統領経験者といえどもドナルド・トランプ氏は機密文書を不当に保管し、閲覧許可のない人物に見せ、そうした事実を隠蔽したスパイ法違反と司法の捜査を妨害した罪で起訴され、裁判にかけられている。機密文書に関しても議事堂襲撃事件における責任にしても、未だにトランプ氏への疑念は全てでっちあげとする本人及びその支持者は民主主義体制を脅かすが、法の下に平等が守られる環境は、まさにソフトパワーが生きていると言えよう。
外圧にさらすには
それに比し、日本はどうであろう。青少年犯罪に関する公文書は規定に反して破棄され、政府の決裁文書改ざんを命じた責任者は罪にとわれず、機密文書の扱いはずさんである。マイナンバーカードを巡る失態はDXの遅れや政治機能の不備をさらした。日本の将来を危ぶむ声は多く、子供はなるべく早く海外に行かせるしかないという官僚すらいる。
政治や社会が国際基準にさらされない甘さが、こうした問題が蓄積する一つの要因ではないだろうか。日本は外圧に弱いが、政治や社会問題は日本語という壁に守られている。英語圏や欧州各国はもちろんのことアジアでも英語という共通語でのメディアやSNSの発信が他国の目に触れ、アイディアがぶつかり合い、同調や評価が行き交う。
しかし日本語という限られた環境で収められる限り、国際基準という外圧にさらされることは少ないし、都合の悪い事実は闇の中ということも多い。伊藤詩織氏に対する性的暴行事件や、故ジャニ-喜多川氏の性加害問題は英国のBBCがドキュメンタリーを放映してはじめて日本のメディアも真剣に向き合わざるを得なくなった。東日本大震災の原発問題も欧米のメディアが早く、深く事実を掘り下げた。
日本を国際基準にさらし、ソフトな魅力だけでなく、本当のソフトパワーを備えるためには、英語空間に情報を伝える必要がある。SNSの時代、ツイッター、フェースブック、スレッドなんでもいい。普通の市民が英語で発信してみたらどうだろう。
日本の金融機関に勤めた後、国際問題を学ぶためマサチューセッツ州のフレッチャー外交法律大学院へ。卒業後ワシントンとロンドンを行き来し、外交安全保障問題やNATOなど同盟関係に関し日本のメディアやシンクタンクに執筆している。