私の米国市民権取得体験

アメリカで安定した職に就くために、米国市民権を取得したモンブラン(仮名)さん。その後、日本のお父様のご病気、交通事故、入院、永遠のお別れなどを経験され、米国市民として直面なさった問題についてお話を伺いました。なお、ご本人のプライバシーを守るために、仮名となっています。

米国市民権への道

VIEWS(以下V):そもそも、渡米されたのは何がきっかけだったのでしょうか?
モンブラン(以下M):もう25年以上前のことになりますが、留学し、会計学を勉強し、アメリカで会計業務に携わるようになりました。雇用主がスポンサーとなってくれて、グリーンカードを取得することができました。その後、いくつか経理の職に就きましたが、雇用主の都合で簡単に解雇されてしまうという体験をしました。

そんな時、たまたま近所の民間企業で政府関係のコントラクト・プロジェクト・マネージャーをしている知人から、政府省庁の契約社員となる仕事を紹介してもらいました。これは、グリーンカードがあればできる業務でした。しかし、政府も外注先の民間企業を3年毎に変えています。民間企業育成のためです。したがって、3年後には私を派遣した契約会社は政府下請けから外れました。しかし、私は幸い、その後継企業の下で、契約社員としてそのまま仕事を続けることができました。

とはいえ、仕事がなくなると自宅待機や短時間勤務を命ぜられるなど、将来、いつ解雇されるかわかりません。解雇されると健康保険も失ってしまいます。上司からは、「安定した仕事をしたいのなら、市民権を取って、正職員になった方がよい」とアドバイスされました。私は一人っ子なので、日本の両親にも相談してみました。米国市民権取得についてはちょっと驚いたようですが、「30歳代で、日本での就職は難しいから、アメリカで仕事を探した方が良いのでは。戸籍上は変わるけれど、自分たちの娘であることには変わりがないのだから」と背中を押してくれました。

主人(当時は婚約者)はグリーンカード保持者で、彼の職業柄、将来的にも福利厚生が全く期待できない状態であったにも関わらず、「日本は二重国籍を認めていないから、日本人なのに日本国籍を失うと、将来、日本に戻った時に困るかもしれないし、連邦政府で働けるという保証もない」と、私が米国市民権を取得することに反対しました。でも、私は安定した生活ができたら、楽しくなると思いました。

市民権取得の手続きと就職

V:実際の市民権取得の手続きはどういうものだったのでしょうか?
M:2001年秋に、申請しました。1年かかると聞いていたのですが、書類審査、面接のテストもトントンと進み、2002年春には市民になる宣誓式に出席しました。テストは移民局のサイトに100問くらいのサンプルがあるので、猛勉強しました。でも実際に面接に行ったら、名前、その日の日付と天気、州知事の名前と簡単な3つの質問をされただけでした。

2002年4月に宣誓式に行ったのですが、ちょっと感動的でした。その後、6月に日本領事館に行き、日本国籍を失ったことを報告に行きました。領事館は、喪失申請を受理したので、4ヶ月位経ったら日本の両親から戸籍謄本を取り寄せて、自分の名前がクロスアウトされているかを確認するように言われました。実際に取り寄せると、本当に名前がクロスアウトされていて、これはちょっとショックでした。でも気持ちを改めて、仕事を探しました。

運よく、その年の5月に連邦政府職のポスティングがありました。その職場は10年ぶりに採用するとのことで、英語と東アジア諸国の言語ができる人5人を探していました。仕事内容も以前に別の職場でコントラクターとしてしていたのと似ていました。申請書の市民権有無の欄にはYESにチェック。10月上旬ころまでに、決まるとのことでした。10月初めになってやっと面接に来るように言われ、採用が決まり、11月からスタートしました。その間、8月に結婚し、2002年は市民権取得、結婚、就職と私にとって、最高の年となり、両親も喜んでくれました。

父の交通事故と入院

V:すべてスムーズに進んで、良かったですね。では米国籍になって、困ったことなどおありでしょうか?
M:実はこの数年、すごく大変だったんです。2013年にパーキンソン病を患っていた母が72歳で他界し、母より2歳年上の父は一人暮らしをするようになりました。心配だったのですが、2019年6月、父のケアマネージャーさんから突然、自宅に電話がかかってきました。父が車を運転中に脳梗塞となり、衝突事故を起こしたというのです。

父は7人兄弟の下から2番目ですが、兄弟は皆亡くなっており、生きているのは90歳近い兄一人だけ。亡くなった母の親せきも皆、高齢。警察はケアマネージャーに連絡し、ケアマネージャーが親族に連絡したけれど、誰も応答なしだったので、私に連絡してきたのです。すぐに帰ってきてくださいと言われ、2週間帰国しました。成田空港から父の病院に直行。父は半身不随で、何を言っているの不明、眼も開かず、右手がかろうじて動くくらいでした。病院からはすぐに80万円近い治療費、入院代を支払うように言われました。幸い、実家を探したら、健康保険証が見つかったので少し安くなりました。

父の銀行口座からお金をおろそうと銀行に行ったのですが、戸籍謄本がないとダメだと言われました。なりすまし詐欺が多いからのようです。区役所にも行きましたが、父からの委任状がないと戸籍謄本は出せないと言われました。銀行のATMカードが見つかったので、父に暗証番号を聞いたところ、動かせる右手で教えてくれました。5本の指で伝えることができる番号だったので、助かりました。

ところが、お金をおろそうとしたところ、年金生活をしている父はちょうど、友人たちと北海道旅行に行くために大金をおろしたばかりで、口座にお金はほとんどない状態でした。

夫は関西の人間で、家族も関西。関東にいる父の後見人になってもらえる人がいません。義理の妹をとも考えたのですが、血縁者でないとダメ。娘は、まだ未成年。父の兄も高齢で後見人など頼めません。近所のおばさまに、司法書士に後見人になってもらうとよいとアドバイスされ、よい司法書士を紹介してもらいました。早速、その方の事務所に駆け込んだのですが、こういうケースは扱ったことがないので、考えさせて欲しいと言われてしまいました。これがアメリカに戻らなくてはいけない3日前のことです。

その間、被害者の方の車の補償、父の車の処分、家の管理を誰かに依頼しなくてなりません。幸い、実家で父の市民カードがみつかり、暗証番号もATMカードと同じかもしれないとトライしたところ、ぴったり!これで、区役所に設置されていた機械で戸籍抄本を入手できたので、車を売ることができました。また、幸い、司法書士さんが、後見人を引き受けてくださることになりました。

司法書士さんを後見人に

司法書士を後見人に立てるために、3カ月かけて準備された書類を、裁判所に9月に提出しました。本来ならば司法書士と一緒に私も裁判所の面接に同席しなければいけないのですが、そうそう日本に帰ることもできないので、司法書士さんが申立事情説明書を書いてくださり、その説得力がある内容が効力を奏し、出席が免除されました。通常、半年はかかるといわれるプロセスが、11月上旬には裁判所に認められました。それまでの間、義理の妹が保証人になってくれており、ATMカードも預けて、入院費等の支払いをお願いしました。

さて、2019年11月下旬には父は介護老人保健施設(老健)へ転院。その後、老健は3か月しか利用出来ないため、長期入所可能な次の特別養護老人ホーム(特養)を探すように言われました。私は11月に再び日本へ帰国し、後見人となった司法書士さんと一緒に数件回りました。父が糖尿病でインシュリン注射が必要なため、なかなか受け入れてくれる施設が見つからなかったのですが、やっと実家近くに一か所見つかり、父を移動しました。特養滞在費は、父の年金では足らなかったので、私が補足しました。

両親が50年住んだ家も処分することにしました。廃棄業者は100万円との見積もり。タンスなど大物以外はほぼ徹夜状態で処分したため、実際には40万円で済みました。家を壊し、更地にしたのですが、なんだか防空壕みたいなコンクリが土地から見つかり、その処分に30万かかりました。やっと2020年2月に土地を売ることができました。

その間、父は二度目の脳梗塞を起こしました。痰がひどく、日中は吸引してくれる看護人がいますが、夜間はいないので、特養も出なくてはいけないことになりました。司法書士さんが、療養病院を探してくださり、移動してくださいました。

後見人がいても、最期をどうするかは、私が決めなくてはなりません。点滴の針も入らなくなりましたが、胃ろうはせず、自然死を選びました。今でもこの選択肢で良かったのか、父が希望していたことなのかと悩むことがあります。

父の死とその後の手続き

2021年1月7日午前1時に父危篤の連絡が入った司法書士さんが、病院に駆けつけてくださり、父は3時に他界しました。霊安室から司法書士さんが私の自宅に電話してくださり、私は父の死を知ることになりました。コロナ禍で米国籍の私は日本に帰ることもできず、父の兄が焼き場に行き、司法書士さんが、納骨までしてくださることになりました。それには裁判所の許可が必要だったのですが、許可が出ました。

その後、司法書士さんは、年金差し止めなどの処理をしてくださいました。今年はたった7日間しか生きていなかったのに、6月には区役所から1年分の市民税の請求が来ました。司法書士さんに連絡し、司法書士さんが区役所に行ったところ、後見人ではなく、日本にいる親族ではないとダメだと言われました。しかし、父の兄に頼むわけにもいきません。私が税務署にレターを出し、父の銀行口座を管理している後見人に送付するよう依頼したところ、受け入れてもらえました。

V:素晴らしい司法書士さんに巡り合えてよかったですね。
M:そうなんです。30歳代ですが、移動にもタクシーではなく、健康のためと言いながら、クライアントに負担をかけないように自転車を使うような方です。
また、今回のような特別な例も、今後は増えるかもしれないから、勉強になるからと引き受けてくださったようです。報酬は、父の年金と貯金額で決まり、年1回の支払いです。契約時に見守りサービス、月1回の見舞いをお願いし、父の様子を教えてくれました。父の死後は私との契約になり、遺産処理をしてくださいました。

以上の父の一連の出来事で、外国籍なので父の娘だということを証明できなかったため、色々な事務処理ができなかったことはとてもショックでした。米国籍を取得した時には想像もしていなかったことです。しかし、色々と、大変でしたが、飲食関係の職に就いている夫がコロナ禍で減収となった昨年3月から、私が連邦政府職員としての職があり、歯科も眼科も含む健康保険に家族も依存できることは良かったと思っています。

V:今後はどうなさるご予定でしょうか?日本に帰られることも考えていらっしゃいますか?
M:私は婚姻届けでは、夫の戸籍にカタカナで妻として記載されています。娘は夫の戸籍に入っており、アメリカと二重国籍で、20歳になったら日米、どちらかの国を選ぶことになります。家庭では日本語環境なので、話すのには不自由しませんが、アメリカでの生活しか経験していないので、将来的には米国籍を選び、アメリカ人として生きていくのではないかと思います。

若い時はいいと思っていたアメリカでの生活も年を重ねるにつれ、しんどい部分もあります。夫はゆくゆく日本に戻りたいと思っているのではないでしょうか。でも将来のことは、その時になってみないと分からないですよね。
(文責:池原麻里子)


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