15年という月日
先日、夫がかつて通ったボストンの大学院から、「卒業15周年」の同窓会の知らせが届いた。この15という数字には、思いのほか重みがある。何故なら、この数字はそっくりそのまま、私たちがワシントンDCで暮らしてきた年数だからである。もう15年、という気もする。同時に、まだ15年か、とも思う。
私は今、二人の娘を育てている。夫の留学に伴い、右も左も分からず、生まれて初めての海外生活をスタートしたのが2006年で、その翌年にワシントンDCに越して来た。子どもはまだいなくて、自分の下手な英語ばかり気にしていたのが当時の私。今は、子どもたちの日本語力をどう保つかが目下の課題。親になって、見える風景がだいぶ変わった。そしてここワシントンDCは、生まれ育った東京に続き、私にとっての第二の故郷となりつつある。15年というのは、そういう年数であり、長さだ。
立派なキャリアもなければ、育児もてんで上手くいかず、人に誇れるような「具体的な何か」は一つも思いつかない。けれど、せっかく頂いた寄稿の機会。ワシントンDC生活15年を振り返りながら、私なりに、この土地への思い、この土地での生活について、文字にしてみたいと思う。
程よく都会、程よく田舎
ワシントンDCってどんな所なの、と日本の友人に聞かれるたびに、私はこう答える。「程よく都会で、程よく田舎」と。アメリカの首都であり、国際政治の中心地でありながら、20分も車を走らせれば広がる緑豊かな風景。この「都会らしさ」と「田舎らしさ」という、一見アンバランスで相反する2つの特徴が同居するところが何と言ってもワシントンDCの魅力だと、私は思う。
実は2007年にボストンから引っ越して来た時、私はちょっとした鬱状態に陥った。学生が多く町全体に活気があり、ダウンタウンには高級ブランドをはじめとする有名店がずらっと並ぶボストンに比べ、ワシントンDCはやけに無機質で「何もない」感じがしたのだ。おかしい、首都なのに。世界の中心のはずなのに。地下鉄に乗ってダウンタウンに行っても、何もすることがなく、そのまま意気消沈しながら帰って来ることもあった。そりゃそうだ、東京に住んでいても、わざわざ永田町や霞ヶ関に遊びには行かないだろう。今なら、当時の自分がいかにピントのずれた期待をしていたかが、手に取るように分かる。
しかし、私が知る限り、この15年でワシントンDCは大きく変貌を遂げた。危ないから足を踏み入れてはいけない、と言われていた場所がどんどん再開発され、商業的な魅力を増した。若い層もどんどん流れ込み、住居不足に伴う家賃高騰が問題になるほど。ワシントンDCは楽しい場所になって来た。それを肌で感じた15年。そして、緑や自然が恋しければ、郊外へ。陸で繋がったメリーランド州、橋を渡ったすぐ先にあるバージニア州。2つの州に隣接したワシントンDCは、一粒で三度美味しい場所であると、私は常々感じている。
日本人コミュニティの存在
ボストン時代に日本人同士の強固な繋がりに助けられていた私としては、ワシントンDCに来て、初めは日本人を全く見かけず驚いた。おや、ここベセスダは日本人がいっぱい住んでいるはずなのだが・・・(最初の2年はメリーランド州ベセスダに住み、その後ワシントンDCに引っ越した)。
ところが、親になった瞬間、どんどんどんどん日本人と知り合い、こんなに日本人がいたんだ!と驚くことになる。育児をしながら、たくさんの出会いがあり、その中のいくつかは「奇跡の出会い」レベル。日本にいたら、きっと出会っていなかったかもしれない、ここワシントンDCだから出会えた、奇跡の友人たち。
何人もが日本や他の国に引っ越し、それでも連絡は途絶えることなく、そして何年ぶりかに会っても、ワシントンDCでの思い出話にいつでも花が咲く。外国での日本人コミュニティはストレスだ、とネガティブな発言をする人もいるが、元来の人好きである私にとって、この程よい規模の日本人コミュニティは、正直心地よい。子どもを通して知り合った友人の子どもたちは、まるで親戚の子のような存在で、私も一緒になって成長を見守っている。そして、きっと我が家の娘たちも、成長を見守られている。
冒頭で、子供の日本語力保持に苦労していることに触れたが、我が家の娘たち(小6・小3)は、土曜日の補習校(ワシントン日本語学校)に通っている。綺麗事は全く言うつもりはなく、毎週毎週が「戦い」だ。親であるこっちの方が「辞めてしまったらどんなに楽だろう」とくじけそうになる。しかし、子どもたちが小さい頃に週2-3回のペースで集まっていた日本語プレイグループ、土曜日の日本語幼稚園、そして現在の補習校と、日本語学習の環境はバッチリ揃っていて、本当に恵まれていると思う。そういった意味でも、ワシントンDCは魅力的な土地だ(しかしながら、我が家の子どもたちの日本語レベルについては?また別の話である)。
自由気ままな個人事業主
この15年を振り返ると、退屈したことは殆どなかったなと思い、それが本当にありがたい。私はきっと、止まったら死んでしまうマグロと同じような生き物で、忙しい忙しいと文句を言っているぐらいが丁度良いのだ。
日本でたったの3年しか働かず、25歳でアメリカに来てしまった私は、何だか中途半端に宙ぶらりんな感じだった。夫のお金で何かを買っても、ちっとも面白くない。幸いワシントンDCには日系の会社がいくつもあり、子どもを生む前は、その中の一社で働く機会に恵まれた。産休、育休に入り、さてこの先どうしたものかと考えた時、託児所代と月給がほぼ同額ということが判明し、働く意欲が一気に失せ、一旦専業主婦となった。しかし、結局一年ちょっとで「働かない生活」がつまらなくなり、日本の友人に勧められたEコマース業を始めることになる。組織に属さず、フリーランサーとして、空いた時間を使って自由気ままに(自分勝手に、とも言う)働くスタイルは私に非常に合っていて、ここのところずっと個人事業主。きっとこの先もずっとそうだろう。コロナ禍においても、元々ずっと家で働いてきたので、突然オフィスに行けなくなって戸惑う夫と違い、影響はほぼなかった。
「やるかやらざるか迷ったら、やってみる」――。これは私の幼い頃からのモットーで、個人事業主であるのをいいことに、色々なものに手を出してきた。何か一つ新しいことに挑戦するたびに、少しずつ自分のスキル、経験値が上がっていくような感覚になり、ドラクエのレベルアップ時の音楽が頭に流れる。「頼まれたら、よっぽどのことがない限り断らない」というのも私のモットー。未知の世界に足を踏み入れるのは、いつだってドキドキするけど、そのドキドキが快感でもあるのだ。
15年もワシントンDCに住んでいると、色々な依頼が舞い込んでくる。留学生のお世話、初老夫婦の旅行への同行、NHKのドキュメンタリー番組の現地コーディネーターなど、てんてこ舞いになりながらこなした単発の仕事も多いが、仕事の数だけ出会いがあった。そして仕事に費やした時間と比例し、自分の人生が豊かになった。
ワシントンDCは、日本人にとって、遊ぶ環境も、子育てをする環境も、働く環境も、きちんと整っている場所だ。何か一つでは満足出来ない、欲張りな人間にはもってこいの場所。夫が仕事を見つけ、どんな所なんだろうワシントンDCって、と少し不安に思いながら、ボストンからオンボロのビートル(当時の愛車)を8時間走らせ、下見に来たあの日を思い出す。まさか自分にとって、こんなにも大好きな場所になるとは思わなかった。
この15年に感謝。そして、これからの15年も楽しみでならない。
2003年、慶應義塾大学文学部卒業。卒業後KKベストセラーズ、ベネッセコーポレーションで雑誌編集、雑誌広告営業を経験した後、夫の留学に伴い2006年に渡米。2007年よりワシントンDC在住。現在は育児の合間に複数の仕事を掛け持ち。好奇心が旺盛すぎるのが長所且つ短所。