理想のパートナーについて考えてみた: 譲れること、譲れないこと
昔々若かった頃、結婚というものはしてもしなくてもいいと思っていた。自活可能な収入があり、楽しく過ごせる気の置けない友人がいればそれで十分ではないか、好きな人と一緒に暮らしたければ結婚してもいいし、恋人がいない、またはいても生活まで一緒にしたくないのであればずっと一人でもいいんじゃない?と。
武道家で哲学者の内田樹が、結婚しない若者が増えている現状に触れ、結婚はリスクヘッジになるのでした方がいいと言っていた。正確な表現は覚えていないが、一人より二人で生活した方が危機に対処しやすいといった趣旨だったと記憶している。私自身も結婚し、その後まぁまぁ長期間の結婚生活を続けているが、ここ数年コロナ禍で通常の社会生活ができず、また年齢を重ねて弱ってきたということもあり、「結婚しているというのも悪くないかも」と感じている。
相手がどんな人であっても一人より二人の方がいいという訳では全くない。「これなら一人の方がずっとマシ」な相手では、リスクヘッジどころではない。パートナーに何を求めるかは、百人いれば百通りの考えがあるはずだ。パートナーとして一緒に暮らしたい相手が同性の場合もあり得る。内田さんは必ずしも籍を入れた夫婦になることのみを念頭に述べていたのではなかった気がするが、現在日本では同性カップルは夫婦と同等の法的保護が受けられず、リスクヘッジの範囲が狭まってしまう。同性カップルが家族になる法制度が存在しないのは違憲状態とする判決(東京地裁)が出ており、この件の法整備が待たれる。
私の理想のパートナーとは?
言いたいことを言えば、「知的で博識で頑健な身体と成熟した広く強い心を持ち、経済力があり、私を尊重し心から愛してくれる美形の男性」とでもなるだろうか(書いていて自分でもかなり恥ずかしい)。しかしそのような男性がそうそう存在するとは思えないし、存在したとしても私と出会い、私を心から愛するようになる、などという奇跡はまず起こらない。
ではどのようなパートナーと暮らしたいか、もう少し現実的に考えてみる。
私は猫を飼っている。先代の雄猫も先代が旅立った後に迎えた今の雌猫も、かけがえのないパートナーと言える。しかし先代猫も今猫も、撫でてほしいときに撫でないと怒り、撫でてほしくないときに撫でると怒り(暴力に訴えることもある)、ご飯を出せ、遊べ、と人間の都合にはおかまいなく要求しその要求が容れられるまで諦めず、自分が決めたルールは人間に強要し、(「キャットタワーは私の陣地だ。ここにいるときは手を出すな」)、人間が決めたルールは無視する(「テーブルに乗るな?なんの話だ。」)。人間であったらパートナーとしてはもちろん、友人としてのお付き合いもご遠慮申し上げたい相手である。しかし、そんな彼らとの生活は大きな幸せを与えてくれる。猫はありのままで一緒にいてくれればそれで充分という、ある意味究極のパートナーと言える。
人間相手ではそうはいかない。パートナーに「今のあなたのまま、一緒にいてくれるだけでいい」と言える、またはパートナーからそう言われる幸せな人はあまり多くないと思われる。多くは、「もっとこうして欲しい」「こうだったらいいのに」と、相手に要求する。要求しないまでも期待し、期待に応えられないと失望する。相手への失望度を下げる手っ取り早い方法は「期待することをやめる」であろうが、それは少し寂しい。少なくとも、パートナーとの心地よい生活のためには、互いの存在を、自分とは違うところを含めて尊重することが大事だと思う。
私にとって理想のパートナーとして譲れない条件があるとしたら、この「私を個人として尊重してくれる人」ということになる。人との関係性は相互作用によるところが大きいので、自分の要望だけでなく相手のそれをも尊重することが必要なのはもちろんである。二人でいると楽しく、加えてそれぞれが一人でも楽しむことができるような相手なら、心地よく暮らしていける気がする。
食の趣味の一致は重要
…といった観念的なこととは別に、「食べること」は結構重要だったりするのではと思う。「作りたい女と食べたい女」「きのう何食べた」というコミックが話題になった。いずれもドラマ化(後者は映画化も)されている。主人公たちはLGBTQ(「作りたい…」は女性同士、「きのう…」は男性同士カップル)で、どちらの作品も「美味しいものを一緒に食べること」が大切な要素として描かれている。
「作りたい女と食べたい女」では、料理好きな一人暮らしの女性が職場で手作りのお弁当を食べていると、男性社員から「いいお母さんになれるよ」などと褒められ、「自分のために好きでやってるもんを『全部男のため』に回収されるの、つれ~な~~」とぼやくところから始まる。主人公はアパートの同じ階に住んでいる、たくさん食べる女性と出会い、自分の作る料理を美味しそうにかつ豪快に食べてくれるその女性に惹かれていくという話だ。
「きのう何食べた」は、料理好きな弁護士シロさんと美容師のケンジが一緒に暮らし、諍いや家族との葛藤などいろいろありながらもシロさんの作る料理を二人で食べてほっこりと過ごしていく日々が描かれる。美味しいものを「美味しいね」と言いながら二人で食べられるのは、幸せな関係と言えるのではないだろうか。個別の食材での好き嫌いはそれほど大きな問題ではない。でも、好きな料理のジャンルが全く重ならなかったり、自分は美味しいものを食べることが大好きなのにパートナーがそもそも食に興味がなく料理に費用や手間をかけることに全く価値を認めなかったりしたら、それでパートナー関係を解消したくなるというほどではなくても、ちょっと辛いかな、と思う。
私自身美味しいものは好きで、持ち寄りパーティに一品用意することや、料理を作って友人を招くことは苦にならない。むしろ好きと言える。だが、家事としての食事作りはどうにもおっくうで、やりたくないな~と日々感じてしまう。先に挙げた理想のパートナー像に、「料理が上手」というのを追加すべきかもしれない。先日我が家に友人たちを招いたとき、一人は旦那さん作製のからすみを、別の一人は旦那さん作製のココナッツカレーを持ってきてくれて、どちらも絶品だった。遊びにでかける妻に手作りの料理を持たせる夫ってかなり素敵、と思った。(ところで、人の配偶者を指す表現に悩む。特にその人が「うちの主人」と言わない場合、こちらが「ご主人」と呼ぶのは抵抗があり、「御夫君」「夫さん」というのも日常会話になじまない。いい呼び方が出てこないものだろうか。)
最後に、絶対に受け入れられないのは暴力である。肉体的な暴力はもちろん、人格否定などのモラルハラスメント全体を根絶したいと願う。暴力をふるう側にも自分自身がそうされて育ったなどの背景があり得るので、単に断罪することはできないが、だからといって暴力をふるうこと自体は容認できない。DVは無条件に悪であるという認識が共有され、被害者が「あなたにも悪いところがあった」などと言われることがない社会にしたいと、唐突であるが心から願う。
90年代に2年間NYに駐在、現在は東京で主婦生活を営む。趣味は猫と読書と、ここ数年はBTS。