置かれたところに咲きなさい

旅先での家族写真。筆者は右から2人目、左端が母

旅先での家族写真。筆者は右から2人目、左端が母

戦中生まれ戦後育ちの母のモットーは “置かれたところに咲きなさい”。与えられた環境の中で最善を尽くし、幸せを見つけること。それはきっと周りの人をも幸せにするだろうと信じて。母は常にそれを行動で示してくれた。

70歳からの海外生活

私が大学生になり上京すると同時に、一人暮らしとなった母は岡山の自宅を開放し、こだわりのいっぱい詰まった喫茶店を開いた。今あちこちで見られる町カフェの先駆けのようなお店だ。空きスペースでフラワーアレンジメントや絵画の教室も開催し、さながら町の人たちのコミュニケーションの場となっていた。そんな母の老後はまだまだだと安心していたものの、一人っ子である私もいつかは、母のリタイア後の人生を考えなくてはならない日が来ると漠然と思っていた。やがて母は古希を迎える頃、「元気なうちに別の生き方も試したい」と、自身の誕生日に合わせて店じまいをした。

そんな母を北京に呼び寄せたのは2012年春。次女の出産を機に休職中だった私が復職するタイミング。1歳になる娘は、毎日掃除に来てくれていたアーイー(阿姨:中国語でお手伝いさん)に面倒を見てもらうつもりだったが、娘は彼女になかなか懐かなかった。そこで、“別の生き方”を模索していた母に「娘の世話を手伝ってもらえないか」とそれとなく頼んでみた。「はい!行く行く!」と二つ返事で母は引き受けてくれた。そこから母の北京での新しい生活が始まった。

毎朝母は、孫(次女)を連れて公園に出かけた。午前中の中国の公園はエンターテイメントの宝庫。引退したお年寄りたちがそれぞれ孫の面倒を見ながら、あちこちで美声を響かせ、得意な楽器を披露し、キャンバスを彩り、太極拳やダンス、卓球や将棋に打ち込んでいた。元々多趣味で絵画、彫刻、お箏、日本舞踊などを嗜んでいた母は、中国の多様な文化に大いに触発された。芸達者な人たちを眺めたり、言葉の不自由も筆談で乗り越えながら時には仲間に入れてもらったりと、現地の人たちに囲まれて孫と過ごす時間を存分に楽しんでいた。

北京で生活し始めた頃

北京で生活し始めた頃

そんな母の姿を見ながら夫は、遠く離れたヨルダンに住む自分の両親のことを想っていた。夫には7人の兄弟姉がいるが、一人の姉を除いてみな国外生活。イスラム教では“自分が親に接したように、子は自分に接する”といい、子供が年老いた両親と一緒に住み面倒を見るという家庭が大半で、メイドやヘルパーは雇っても、施設に入るのは極稀だ。両親も「心配しないで」とはいうものの、二人だけの生活が体力的にも辛そうな様子が電話越しに伝わった。

ヨルダンへの移住

海外生活が長かった夫の「両親のそばにいたい」という想いは強く、2015年夏、私たちはアンマンへの移住を決心した。

一旦日本に帰国した母もしばらくしてヨルダンにやってきたが、2か月後に、軽い脳梗塞で倒れた。幸いなことに後遺症などなく、母はすぐに回復した。夫の両親との半同居生活や、あまりに違うカルチャーに身を置いたストレスもあったのだろうと思う。けれど母は日本に帰るより私たちと暮らすことを望んだ。

部族社会のヨルダンでもとりわけ結束の強い我が家は、ざっと思いつくだけで数百人規模の親族がいる。人を招くことが大好きだった義母の家には、毎日どこからともなく30人くらいが集い、特に夏場は孫世代も一緒に日付が変わるまでお喋りが続いた。母と義母は同い年。言葉の壁が高すぎて、二人で会話をすることは難しかったが、「この年になると言葉が通じなくてもわかり合えるものよ」、と母は笑っていた。そうは言っても北京とは違い筆談も出来ない。英語も話せない母にとってコミュニケーションが取れるのは私たち家族だけ。話し好きな母のおかげで子供たちの日本語はどんどん上達した。

2017年の暮れに義母に脳腫瘍が見つかった。私たちが看病と介護で大変になると、母は何も言わず家事や子育てを一手に引き受けてくれた。メイドさんはいたものの、やはり心強かった。

約2年の闘病生活で日に日に衰弱していった義母を見て居られなかったのか、元気だった義父も突然体調を崩し、義母よりも少し先に旅立った。それを見届けるかのように、義母も義父の死から3か月後の2019年秋に永眠した。

孫たちと遠足。左端が母

孫たちと遠足。左端が母

80歳からの挑戦

残された私たちは、家の問題などを片付けて北京に戻るつもりだった。しかし、その直後にコロナが世界を襲った。私たちは身動きが取れなくなり、その年に高校を卒業した長女はアメリカ留学を断念せざるを得ず、母もしばらくヨルダンに足止めを食らった。長期のロックダウンで気持ちが塞ぎ込むような日々、日本を恋しがっていた母は誰よりも動いた。庭作りに精を出し、着物地を使ってパッチワークをしたり、さらには50年ぶりにお箏の練習も始めた(なんとこちらでお箏を教えてくれる人がいたのだ)。コロナ禍でも「置かれたところに咲きなさい」を率先して示す母に感化され、私や子供たちも見えない先のことを嘆くのではなく、目の前にある自分たちのすべきことに集中した。老いた母の面倒を見るどころか、いまだに私たちの方が教えられ、助けてもらっている。

30年ぶりに再始動したお箏と、母が成人式で着た着物をほどいて作った1000ピースのパッチワーク

30年ぶりに再始動したお箏と、母が成人式で着た着物をほどいて作った1000ピースのパッチワーク

先日、とある出会いがきっかけで、ヨルダンに友人とカフェを開こうかという話が持ち上がった。母に話したら「私にも手伝わせて」と興味津々だ。一体いくつの種を蒔いたのだろう。ここまで来たら是非その花も大きく咲かせてほしい。

コロナ禍での月の砂漠ワディラムを満喫する母

コロナ禍での月の砂漠ワディラムを満喫する母


    置かれたところに咲きなさい” に対して1件のコメントがあります。

    1. 本郷 真矢 より:

      記事興味深く読みました!
      今アンマンに住んでいるんですね。
      自分は今ドバイに住んで8年目になりました。
      ヨルダン、いつか行きたい場所です!

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