義母の置き手紙: 義父母に見る理想的パートナーの関係 

2007年当時の筆者(右)と義父母 Curt and Jinx Tong

2007年当時の筆者(右)と義父母 Curt and Jinx Tong

「私の理想のパートナー」というテーマで特集原稿の依頼を受けた時、引き受けるかどうか躊躇した。学生時代に知り合って約40年、結婚33年の夫は、自分を理解してくれる無二の親友ではあるけれど、「自分を一番理解してくれる良きパートナー」と詳細を書けば、おのろけや自慢話や聞こえてしまうのでは、とためらった。そこで、夫に尋ねてみた。「理想のパートナー像のテーマで原稿を頼まれたけど筆が進みそうもない。どうしよう?」と。

すると、彼は「完璧ではない二人の人間が一緒になり、合っていると思えれば、それが、理想なんじゃないの?」と即答。それで思いついたのが、両親や義理の両親。自分が一番よく知る身近な夫婦で、長所や短所もよく見える。特に、父や義父からみた母と義母は、きっと理想のパートナーだったに違いない、と思えてきた。以前、VIEWS「家族欄」に拙稿「認知症に優しいコミュニテイーへ向けて」で父と義父を、「アンネ・アンネの夢」で母と義母を紹介する機会を頂いたが、今回は、私にとって「理想のカップル」の一組である義父母のエピソードをご紹介したい。

外ではカリスマ・リーダーの義父、内では・・・

結婚式での義父母

結婚式での義父母

学生時代に大恋愛で結ばれた義父母。子供の頃から運動神経抜群な義父は、空軍パイロットを経て、ウィリアムズ大学のバスケットボールやテニス・コーチ兼体育部教授や、ポモナ大学体育部部長を務めるカリスマ・スポーツマンとして知られていた。その一方、母は義父のキャリアを優先しつつ、子育てをしながらも自身の教職を勤め上げ、家庭内ではあらゆる面でテキパキとリーダーシップをとっていた。

例えば、義父は銀行のATMも使わない(使えない?)、キッチンでお料理する姿もみたことがないほど「亭主関白」。それでも、義母に頼まれれば、ユーモアたっぷりな皮肉を口にしながらキッチンに立ったりと、家事に協力していた。義父は筆まめな人だけど、タイプはしない、できない、もしくはする必要がなかった。いつも必ず周りに義母や助手がいて、助けてもらっていたからだろう。インターネットが普及してからも、コンピューターを使わず、それを使いこなせる義母にいろんな面で頼っていた。自身の本の執筆も昔ながらの手書きで進め、義母に口頭筆記してもらっていた。優しく聡明な義母が、そのことに対して愚痴を言ったりするのも耳にしたことはない。

賢い義母の置き手紙

その筆まめだった義父は、レターサイズの紙両面に手書きでびっしりと二人の生活を知らせる手紙を、カリフォルニアやマサチューセッツの自宅から、そして長期滞在先からよく送ってくれた。ある日、義父からの手紙に、当時、高校の校長を務めていた義母が早朝、義父に残した置き手紙について綴られていた。「明日、大切なお客さんが来るから、早く帰宅したら、オーブンの中も含めて、水回りのキッチンやトイレをきれいに磨いておいてください。ありがとう。」と。客人が誰であるかも知らされず、でも、その当時、義母よりずっと早く帰宅できる義父は、仕方ない、頼まれたので協力しよう、と腰を上げたのだろう。義父は、自分がどんな手順でキッチンやオーブンをゴシゴシと磨き上げ、頑固な汚れのある箇所をどれ程苦労して磨いたかと、その詳細をとうとうと手紙に綴っていた。

翌日、玄関先に現れた義母の「大切なお客さん」は、週一の予定で義母が雇ったばかりの家政婦さんで、通いの初日だった。義父にしてみれば、「お金を払って家政婦さんがやって来るというのに、なぜその前に自分がキッチンの磨き仕事を?してやられたな!」と思った瞬間だったに違いない。それでも社交的な義父は、家政婦さんを歓待して迎えたようだ。賢い義母は、家をできるだけきれいな状態で家政婦さんに見てもらい、キレイの標準を高くしておきたかったのだろう。この大変合理的で、一枚上手の義母の置き手紙の賢さを子供達に伝えたかったのか、自分の家事能力を証明したかったのか、義父の手紙は、淡々と事実が語られているだけだったが、義母とのこうした関係を楽しんでいる様子が目に浮かんだ。

義父そして義母からの手書きの手紙

義父そして義母からの手書きの手紙

その手紙を読み終えた私は、「理想のパートナーシップへと誘導する極意」を義母から教えてもらった気がしてニンマリしたのを覚えている。そして、それをユーモアたっぷりの手紙で子供達に伝えてくれた義父、二人の呼吸がピッタリ合っているのがわかって微笑ましかった。

相手にとって一番大切なことを尊重できる対等なパートナー

晩年、義父は、アルツハイマーを発症し、サポート体制があったとはいえ、義母の献身的な介護には頭が下がる思いがした。症状が悪化することもあり、徘徊や暴言に悩まされても、いつも、何が一番、義父にとって良く、安全、安心なのかを最優先する義母だった。

世界を旅していた義父母

世界を旅していた義父母


そして、昨年夏に余命4〜6週間の末期ガンを宣告され9月に逝った義母は、その人生最後の6週間で、やれることを全て淡々とこなした。自分のメモリアル・サービス(葬儀)も自ら計画し、お別れの言葉、聖書の詩篇(121,23)やマタイ(5:1-11)の引用、詩の朗読(メリー・オリバー作、”White Owl Flies Into and Out of the Field”)、歌モーニング・ハズ・ブロークンの独唱に、アメージング・グレースのハーモニカ演奏など7人の孫に役割を決めて頼んだ。新聞に掲載する自身の訃報をタイプ・編集し、先に逝った義父の訃報より長くもなく、短くもなく、同じ長さの訃報に最終編集してほしい、と子供たちに頼み、安らかに逝った。

「遅かったじゃないか、やっと家に帰って来たね。」と、義父のもとに到着したばかりの義母に声をかける義父の声が聞こえてくるようだ。


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