何がひとの道を決めるか

父と私

父と私

ベビーブームの真っただ中の1948年に生まれた私は、今年また年上の親戚を亡くし、もう昔の話を聞けるのは母方の叔父一人しかいない。妹、弟、いとこ達は私よりずっと若いので、今はもうアメリカに住む私が語り部になるしかないという事実に唖然とした。

私の父方の祖父は小此木家の四男として生まれたが、まだ小さい時に三人の娘を持つ親戚の齋藤家の養子となった。私の母は生前、「齋藤のおじいちゃまは齋藤家の娘さんの一人と結婚することになっていたのよ」と言っていたが、今考えるとそうではないと思う。何故なら姉たちは少なくとも5歳は上だったはずだからだ。

祖父は堅い家風を嫌い、下町が好きだったそうだ。東京帝国大学の学生時代には、家から通うのではなく床屋の二階に下宿していたという。そして、そこの看板娘に恋をした。家族の猛反対を受けたが大学卒業後、都内の銀行に職を見つけ二人は結婚した。若夫婦は私の父が生まれてから乳母と4人で北京に渡り、数年後に祖父は大連に家族を移して港湾局長となった。が、私の父が旅順高校在学中に病死。葬式後の傷心の祖母、口をきっと結ぶ父と心細そうな二人の弟と二人の妹たちの写真が残っている。

長い前置きになったが、以下は私の大伯母と父の話だ。

私の父の話

幼稚園生だった私は、母が夕食の支度をしている間、仕事から帰ってお風呂の後、手酌でウィスキーをゆっくり飲む父の胡坐をかいた膝にのり父のお相手をするのが毎日楽しみだった。酒に強い父だったが少し酔うと必ず「惠は大きくなったら津田塾に行くんだぞ」と言った。私は父を喜ばせるため15年後には津田塾大学にしか願書を出さなかった。

自分の父親を早く亡くした父はよく伯母の話をした。私も連れられて、数度その大伯母と彼女の義理の妹が住んでいた洋館を訪ねた。芝生の庭と家の中を平気で走り回る飼い犬にびっくりした覚えがある。

大伯母、辻まつ

その大伯母の辻まつは、早稲田大学で教えた科学者と結婚した後も津田塾で津田梅子の右腕として教鞭をとり、父の生まれる直前に起きた1923年の関東大震災で塾の校舎が全焼した後、自宅を仮校舎として提供したという記録が残っている。子供のいない大伯母は、先に死んだ弟の長男である父を可愛がってくれたのだろう。父はよく大伯母の話をしてくれた。猛反対されて満州に移った自分の両親と全く違い、この学者夫妻はごくさっぱりしていて仲の良い同僚という感じのすれ違い夫婦で父は目をまるくしたようだ。ちなみに、父は、自分の両親が5人の子供達を乳母たちに任せて二人でいるのが好きだったのを覚えている。

祖父は後列写真右で彼が手をかけている椅子に座っているのが祖母、祖母の隣で前列の真ん中に座っているのが辻まつ、左の女性二人はまつの妹たち

祖父は後列写真右で彼が手をかけている椅子に座っているのが祖母、祖母の隣で前列の真ん中に座っているのが辻まつ、左の女性二人はまつの妹たち

後に津田塾の学生となった私とジョニーウォーカーを一緒に飲みながら、父はその伯母がオックスフォード大学で学んだ、と話した。私は、その頃大伯母がオックスフォード大学に在籍できたはずはないので、大伯母が留学したのは津田梅子が卒業したブリンマー女子大学で、これは父の思い違いだろうと思ったが、父には言わなかった。父の他界後、津田塾大学図書館の資料館の司書が、辻まつは聴講生としてオックスフォード大学で学んだ、と教えてくれた。「疑ったりして申し訳ございません」と私は心の中で父に謝った。

父の面影

先日、末っ子の息子から届いた写真を見て胸がドキッとした。娘を手に乗せたその息子の横顔は父とそっくりで、父と見間違えるほどその面影が写っていた。それを見て涙が止まらなかった。

息子と孫

息子と孫

今、この原稿を書きながら私は手酌で父の好きだったジョニーウォーカーを飲んでいる。父と大伯母が私に道を示してくれた。私の三人の子供達はもう中年を迎える年なので、代わりに小さい孫達に英語で昔の話を聞かせているが、多分覚えていてくれはしないだろう。英語で書いておこうと思う。


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