『東京プリズン』(赤坂真理)の衝撃

『東京プリズン』(赤坂真理)

『東京プリズン』(赤坂真理)

友人が「これおもしろいよ」と貸してくれた本書。近頃、日本語の書籍からめっきり離れてしまっていたので(かといって英語の書籍をめちゃくちゃたくさん読んでいるわけではないが)、その厚さとフィクションなのになんだか重いタイトルにお借りするのをためらったが、なにしろ最新の日米の政治経済、文化、社会に精通している友人の薦めだ。読まないわけにはいかない。

本書は、歴史、政治、スピリチュアルさらにはSFファンタジーを盛り込んだ力作。その多面性ゆえ、どのような好みの読者であってもひきこまれること間違いなしだ。そしてこういった多様な要素を織り込みながら、ストーリーは現在と過去、 アメリカと日本、はては現実と幻想/夢/記憶の間を自在に行き来する。こういったストーリーテリングの手法が素晴らしいのはいうまでもないが、本書に見え隠れする、米国文化(特に米国におけるハイスクール文化)、英語の使用法、ポストコロニアル理論、宗教などの社会・人文科学諸分野に対する作者の見識の深さには、驚かされる。本書が毎日出版文化賞をはじめとする多くの賞を受賞したのも不思議ではない。

あらすじは、1980年に中学を卒業した16歳の少女マリが、本人もよくわからない理由で遠く離れた米国メイン州の高校へ留学する。そして進級の条件として「天皇の戦争責任」について論じるように命じられ、日本の学校では習わなかった日本の現代史と向き合うことになる、というもの。

ただこの本が、マリという少女の私的な経験を通じた現代日本史再考に終わらず、ファンタジーの色彩を帯びるのは、描かれる世界がマリの現実だけではなく、マリの紛れ込む夢の世界であったり、母の記憶だったりするからだ。例えば、マリが寂しさを紛らわそうと日本に電話をかければ、電話の向こうはなぜか現代の日本、電話にでてきたのは母親ではなく、母親の年になった自分、というような時空のワープが各所にちりばめられており、本書を飛びぬけておもしろくしている。

ただその一方で、 複雑にからみあう複数のプロットのせいで、何がメインプロットなのかがわかりにくく、一回読んだだけでは著者のメッセージを受け取るのは難しい。そもそもタイトルの『東京プリズン』とは何を意味するのか。主題は一体何なのか。書評を書く上の禁じ手ではある、と思いつつ巻末の池澤夏樹氏による解説をちらりと見たところ、彼はずばりと言い切っている。「『東京プリズン』の主題は「天皇の戦争責任」だ」(530頁)と。

たしかに、本書において中心となる事件は、マリが「天皇の戦争責任」およびそのコンテクストとしての極東国際軍事裁判—いわゆる東京裁判—を勉強していくうちに、歴史とは「勝者の記述」であるということ気づく、というものである。それを語るための材料として、終戦直後のマリの母親の通訳の仕事とそれについての母親の沈黙、妙なベトナム人の双子が話すベトナム戦争の記憶などが使われる。しかし、脱構築的歴史再考のみが本書の主題ならば、本書を通じて描かれる「大君」あるいはTENNOU霊と呼ばれるスピリチュアルな存在はどう考えたらよいのだろうか。

このスピリチュアルな「サブプロット」の意義は、「天皇の戦争責任」に関する記述が、実は主題を提供するための「まくら」である、と考えることによって理解できるように思う。 赤坂氏が語りたかったのは、「天皇の戦争責任」をめぐる議論ではなく、むしろ「天皇の戦争責任」を含む日本の戦争と戦後の歴史を語らず闇に葬っている日本人の集団的記憶喪失、そしてそれによって葬られてしまった人々の記憶、なのではないかと思う。それをタイトルの『東京プリズン』が語っている。

なぜ本書のタイトルは「東京裁判」ではなく、「東京プリズン」でなくてはならなかったのか。その答えは最後のほうで双子が語る言葉に示されている。マリの「なぜ、自分を助けてくれたの?」という質問に双子(の一人)がこう語る。「あんたが希望だから」「俺たちもまた、プリズンに囚われているからだよ」(485頁)。この意味するところは、(ベトナム人である双子が、さらには日本人が)勝者によって書かれた歴史という記憶に囚われている、ということだ。

そして勝者によって書かれた歴史により沈黙を課されているPEOPLEこそがこの小説のキーワードだ。「ぴーぽぅ」あるいはピープル/PEOPLEという言葉は、この小説のあちらこちらに散りばめられているが、その意味がはっきりするのはこの小説の大詰めで、マリが先生の質問に答えていうところにある。「(私たちは)忘れられた人びと、顧みられない人びと。(中略)戦った後で、戦いの名誉を全否定された人たち(後略)」(502頁)。

しかし、ここでいうPEOPLEを、戦争の犠牲者やいわゆる「英霊」と簡単にとらえてはいけない。作者は、PEOPLEを単に過去の浮かばれない存在であるとするのではなく、もっと広い存在として捉えている。ゆえに上記のPEOPLEには、「大規模な米軍基地に居座られたままの沖縄、その沖縄を見て見ぬふりをしているその他の日本の人びと」(傍線筆者)が含まれるのだ。すなわち解放されなければならないのは、 現在に生きる私たちである、と。おそらく作者が本書を通じて本当に伝えたかったことは、特定の歴史観に囚われの身となっている人びとを解放すること、そしてそのための新たな「言葉と記録」(526頁)すなわち歴史再構築の必要性である、と思う。


赤坂真理著、 河出書房新社、2012年。文庫版は河出文庫、2014年。本稿では文庫版を使用。

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